この国では犬が

本と芝居とソフトウェア

観劇 3 月(三人姉妹、十二夜 ほか)

3 月もたくさん観ました。

9 ほーん。

3 月のトップ 2

三人姉妹

www.kaat.jp

  • 作 : アントン・チェーホフ(訳:神西清)、演出 : 三浦基、出演 : 安部聡子、石田大、伊東沙保 、小河原康二、岸本昌也、窪田史恵、河野早紀、小林洋平、田中祐気
  • 日時 : 2015/3/9(月)19:00~@KAAT 中スタジオ

京都に 7 年半住んでいたのだけど、地点は初めて観た。
それから三人姉妹も。

しかし、すごかった。

三人姉妹はすれ違いの芝居だと何かで読んだことがあって、すれ違いというのは個人的にかなり重要なモチーフなので楽しみにしてもいたのだけれど、まさかそれを、こんなかたちで見せるなんて。

冒頭、登場人物たちが獣のように四つん這いで、ぐちゃぐちゃと絡み合いながら登場するのにも、みな不思議なリズムで口々に「アァッ」と叫んでは崩折れるばかりで一向に台詞が始まらないことにも息を飲んだし、終始なんだか断片的な台詞ばかりで筋がきちんと語られないな、と思っていて、帰り道に持参した文庫を開いて読んだら終始筋の通った戯曲で、要するに舞台とは全然違っていて思わず「全然ちゃうやんけ!!」と心の中でツッコミを入れたし、でもそういうことのすべてが実はどうでもよくて、ただ、舞台の上で真実が語られているように見えたことがすばらしかった。

どうしてそう見えたのかは今でも全然わからないんだけど、とにかくそう見えたのだから、すごくよかった、と評する。

一つ強く印象に残っているシーンを上げるなら、姉妹が壁に張り付いて、三者三様に必死に何かを訴えようとしたとき、ショスタコーヴィチの曲が大音量になって、観客(にも登場人物たちにも)何も聞こえなかった場面で*1、それだけだと一見インスタントで安っぽい表現にも見えてしまいかねないと思うのだけど、どうしてその場面がよかったかといえば、やっぱりそれ以外の場面でも終始一貫して戯曲「三人姉妹」で私たちの生活、私たちの人生について語られていることを誠実に語っていたからなんじゃないかと思う。そして、どうしてああいうかたちで語ることができるのかは、全然わからない。

全然わからないし、どうしてああいうかたちで語ることができると演出家が信じることができるのかも、どうしてそれを信じて役者が稽古できるのかも、全然わからなかったけれど、先月末から芝居を始めてみたら、役者の気持ちはちょっとだけわかるような気もしている。(そして、演出家の気持ちはまだ全然わからない)

地点の芝居はぜひまた観たい。
京都に行けば観られるのだろうけど。関東にもまた来てほしい。

十二夜

www.tohostage.com

喜劇を観よう、と思い立って出かけた十二夜

まず、とても面白かった。
観終わったあとに、前置きなしで「面白かった! 観てよかった!」と思えたのは、これが初めてかもしれない。*2

役者の発声がいい。
一番舞台から遠い(そして一番安い)B 席で観ていたのだけれど、何を言っているのかよくわからない、聞こえない、という場面がまったくなかった。これって基本だけど、すごいことだと思う。(というのは、そうじゃない舞台をいくつも観たことがあるからそう思うのだけど)

台詞もいい。
というのは、文言のことじゃなくて、台詞がきちんと人間の言葉として語られているということ。
先月観たハムレットではちょくちょく台詞を読むように聞こえてしまう場面があったのだけれど、400 年も前の戯曲なので、努力しても、どうしてもそうなってしまう場面があるものなのだと思う。
でも、この日の十二夜にはそれもなかった。あとでそのことに気づいて、びっくりしてしまった。

戯曲がいい。
というのは、まあシェイクスピアなので、おさえるとこしっかりおさえてて面白い。ただ、帰ってから戯曲を読んでみると思いのほか舞台だけでバッチリ全部伝わってたことに気づいて(いつもは「そういうことだったのか~」というのが何箇所かあるものなのだけど)、やはり芝居がよかった、というところに帰ってくる。

といった次第で、変な言い方ですが、プロとはこういうものか……と感心してしまいました。
特にフェステ(道化)役の成河さんがオリヴィアを茶化す、美声で唄う、軽やかに跳ね回ると、八面六臂の活躍でした。

もちろん、他の役者も、演出もすばらしかった。
ヴァイオラ/セバスチャン一人二役の音月桂も好演ながら、最後のヴァイオラ(シザーリオ)が二人!? の場面にはビビってしまいました。あれ、同じ人だと思ってたけどまさか……? 的な。笑

美術も音楽もよかったし。夢のような時間でした。

3 月に見た芝居

詩人の家

ミミズクとめとろもぐら

三人姉妹

愛の漸近線(1 回め)

愛の漸近線(2 回め)

薮原検校

悪い冗談

漂泊

十二夜

*1:泣きましたよそこで、でも直後に場の空気が笑いに転じたので焦った

*2:放心状態になったことなら何度もあるけど……

観劇 2 月(ハムレット、マーキュリー・ファー ほか)

はじめに

1 月末からやたらめったら芝居を見ているので、記録をつけるようにしてみます。

これで読書、短歌と並んで月次コンテンツが 3 つになった。

短歌は題詠企画も月次だから、4 つともいえる。
ちょっとバランスが悪くなってきたので、ソフトウェア開発でもなんかできないかな……とも思いつつ、とりあえずは進めて参ります。

なおタイトルは「観劇」としていますが、ダンスをはじめとした、演劇以外の舞台芸術もたまに見るので、ここに含めていこうと思います。

2 月のトップ 2

ハムレット

シェイクスピア&初ハムレット

蜷川幸雄という人が演出する舞台は昨年までに 2 回見たことがあって、特に 2 回めのとき(『皆既食 ~Total Eclipse~』)がとてもよかったことや、僕が色々と芝居を見るきっかけになった友人がこのハムレットを推していたこともあって、ぜひともということで見切れ席を確保して観に行った、のが 2 月 4 日の水曜日。

そのときは、400 年前の西洋人が書いた戯曲を、初シェイクスピア&初ハムレットの人間にこうまでちゃんと楽しめるように、響くようにやれるということはすごいことなのだろう、とは思いつつ、きちんと全部は受け止めきれなかった、という感覚も残ったのだった。

そして、それなら読むか、ということで、読んだら、まんまと。

2 回めを(当日券に並んで)観に行ってしまったのが、2 月 14 日の土曜日。
この 2 回めが、1 回めにも増して、とてもよかった。

藤原竜也ハムレットはもちろんのこと、1 回めのときにはちょっと空気が馴染まない風に見えていた満島ひかりのオフィーリアと満島真之介のレアティーズの兄妹が、すばらしかった。

序盤、希望に燃えてフランスへ行くレアティーズがオフィーリアに別れを告げる場面。一点の曇りもない明るい兄妹愛がそこにあって、のちの展開を知っているばっかりに、そのシーンで既に泣きそうになってしまったほどだった。

気が狂ったあとのオフィーリアは 1 回めのときもよかったのだけれど、2 回めもすごかった。 一見明るい様子で「明日は聖バレンタインの日」と歌うところでは、どうしてこの子が、という思いが極まって、ぼろぼろ泣いてしまった。

それからびっくりしたのが、ゴンザーゴ殺しのシーンの最後の、歌舞伎のだんまりにヒントを得たという、スローモーションの演出。これは、けっこう昔からやっている演出のようなのだけど(もちろん僕は初めて見た)、すごくよかった。
1 回めのときは度肝を抜かれて思わず息を止めてしまったほどだったし、2 回めもとても楽しめた。

だいたい、数百年前のデンマークのお話である「ハムレット」に歌舞伎の幕が出てきて、幕が落ちるとニッポンの雛壇がドンと出てきて、という演出は、こうして文字にしてみるとえらいぶっ飛んでいて荒唐無稽でさえあるのだけれど、端的に言って、そこに不自然さなどまったくなかったことを改めて認識するにつけ、何がどうしてそうなった、と混乱さえしてしまう。
たぶんものすごい演出家なのだ、蜷川幸雄というひとは。

他にも言いたいことがたくさんあるのだけれど、きりがないので、このへんにしておく。*1

あと一つだけ言えるとすれば、ハムレットは観ると言いたいことや聞いてみたいことがなんだかたくさんたくさん出てきてしまう、謎の多い、様々な相を持った戯曲だということ(そして、それをとても高いレベルで消化して提示した舞台だったということ)なのかな、と思っている。

マーキュリー・ファー

  • 作 : フィリップ・リドリー(訳 : 小宮山智津子)、演出 : 白井晃、出演 : 高橋一生瀬戸康史 ほか
  • 日時 : 2015/2/21(土)18:00~@シアタートラム

胸糞悪い芝居だった。

たぶんがんばって我慢したと思うけど、もしかしたら途中、「クソが」って言ってしまっていたかもしれない。
壁沿いに立って観ていたのだけれど、後頭部を壁にゴツッとぶつけてしまったことも覚えている。(それは、どうしても我慢できなかった。横で観ていたひと、ごめんなさい……)

もちろん、名演だったということ。
それから、胸糞悪かったのは途中のところで、ラストシーンでは悲しいのかなんなのかもわからんまま、わけわからんくらい泣いてしまった。

あーなんなんだったんだ!!

「泣ける話」と評されるようなものではたぶんないと思うんだけど、おそらくここ数年で一番泣いたというのも事実だ。(「悲しみよ、消えないでくれ」の 1 日めのときにもどっぷり泣いたんだけど、その比ではなかった)

そして、なぜあんなに泣いてしまったのか、今ではよく思い出せない……。
画の美しさが、とか、兄弟愛が、とか、どうしようもない運命が、とかなんなりと説明のしようはあるんだろうけど、どう説明しても、決定的に抜け落ちてしまうものがあるような気がしてしまう。

やっぱり、「悲しみよ、消えないでくれ」のときと同じように(おそらくそれ以上に)、「ほんとうに見える芝居、ほんとうに見える演出」が徹底されていたことが、とても大きな要素だったということは言えると思う。

そして、そのことにもやもやしてしまう。
ほんとうに見える芝居が、いい芝居なんだろうか。心を動かす芝居が、いい芝居なんだろうか。

ただ、もう一つだけ言えることは、この日のマーキュリー・ファーが僕の大事なものをごっそりとどっかに持って行ってしまって、結果として僕の、少なくとも生活、もしかしたら人生を、はっきりと変えたということ。

このへんにでっかい穴あいてっから、埋めなきゃ、ってなっている。
この芝居を見なければ、それを埋める作業は発生しなかった。でっかいから、一朝一夕にはいかないし。埋まるんかどうかも、よくわかんないし。

それがいいことかどうかはともかく、もし人生が変わってしまったとすれば、ものすごいことだ。
短い人生、「人生が変わる瞬間」ってそうそう多くはないですよね。
こんな簡単に変わっちゃっていいのかなあ。いや、変わったのは生活だけかもしれないし、そもそも簡単なんかじゃないんだろうけど。

それから、そういう他人の人生を変えてしまうような芝居を連日やっているあのひとたちの人生、というか、人間としての生活は大丈夫なんだろうか、ということを心配してしまう。

俳優って過酷な生き方だと思う。

なお

「悲しみよ、消えないでくれ」の 3 回め(最終日)が 2/1 で、あれを入れるとトップ 3 にしたいところなんですが、あれは 1 月枠ということで……。(個人的に一番よかったのは 1/30 の回だったし)

2 月に見た芝居

時系列順でまいります。

悲しみよ、消えないでくれ

OFF-CLASSICS

ハムレット(1 回め)

エッグ

わたしを、褒めて

ハムレット(2 回め)

狂人なおもて往生をとぐ~昔、僕達は愛した~

マーキュリー・ファー

おわりに

といった次第です。

ずっとこのペースだと破産してしまうので、戦略を練らなくてはなりません……。

*1:そういえば肝心のハムレットについてなんも言ってないな……とも思いつつ。正直言ってハムレットのことはいまだに消化しきれていなくて、こう、と短くはっきり言えることはあんまりないのが現状。

『現代戯曲の設計』の簡単なまとめ(「あらゆる芸術作品は、少なくとも一人の他人とつながりを持つための試みである」)

最近、遅れてきた青春みたいな感じで芝居(演劇)にドエライハマっています。

その一環で芝居にまつわる本を色々読もうと思って池袋のジュンク堂で最初に手に取った『現代戯曲の設計』という本がいきなりすごくよかったので、今後自分で参照するためのメモも兼ねて、内容を簡単にまとめてみます。

現代戯曲の設計―劇作家はビジョンを持て!

現代戯曲の設計―劇作家はビジョンを持て!

序論

あらゆる芸術作品は

最初のページの出だしがいきなり、この本に出会う日を待っていた、と僕が感じた内容だったので、まずはまるっと引用しておきます。

 あらゆる芸術作品は、少なくとも一人の他人とつながりを持つための試みである。完全に抽象的なものだろうと、微に入り細にわたって写実的なものだろうと、芸術作品を通して、一人の男あるいは女が、こう言っているということだ。
 「私は、ある体験をした。私は、あるものを観た。私は、あることに耐えて生き延びた――そして、そのことが私にとって重大だったように、あなたにとっても重大なことかどうか知りたい」
 より深いレベルでは、芸術家は、こうも言っている。
 「私は、人生におけるいくつかの真実を知った――そして、そんなふうに感じるのは私一人ではないことを知りたい」

そうなんです。

僕がこの一節に衝撃を受けたのは、僕がこれまで音楽を作ったり、シナリオを書こうとしたり、ゲームを作ろうとしたり、短歌を作ったりしてきたその動機が、今まで言葉にしようとしてもしきれていなかったそれが、まさにここに明晰に言語化されていたからでした。

今までは、ただ「あれをひとに伝えたい」と思っていました。
その「あれをひとに伝えたい」を丁寧に、ひとにちゃんと伝わるように言うとこうなる、ということだと思っています。*1

ヴィジョンという考え方

この本は、「ヴィジョン」という言葉を中心に置きながら論を展開していきます。

その「ヴィジョン」というのは、簡単にまとめると以下のようなものです。

  • 劇作家が舞台に乗せる、世界観。
  • 世界や世界と人類の関係についての、個々の芸術家の体験や洞察から生まれた、力強い意見。
  • 劇作においては、言葉でそれを語るのではなく、舞台の上でそれを見せる必要がある。

劇作家には(あるいは、劇作家が生きた時代や地域には)それぞれ固有のビジョンがあると考え、それらを分類して伝えようというのがこの本の目的です。

個人的には出だしの一節ですっかりやられてしまったのですが、この本の基調はあくまで劇作のための(あるいは戯曲を読み解くための)手引きなので、以降は個々のヴィジョンについての淡々とした解説となります。
なので、ここからは主として要点を箇条書きでまとめていくことにします。

変化のヴィジョン

リアリズム

  • 「この世界の問題は、理解し解決することができる」という信念を表す劇作形式。
  • 人生に対するヴィジョンは、「変化は可能だ」ということ。
  • リアリズムの戯曲は、ある問題の解決法を教えることはない。そのかわり、問題の原因を示し、その解決を促進する。
  • あらゆる場面が変化に向かって組み立てられており、舞台上での変化が舞台上での変化を引き起こす。
  • ストーリー展開に不要な登場人物やシーン、出来事は排除される。
  • 劇中のあらゆる要素が、幕の降りる前に解決される。
  • 文芸批評における「人生の断片」という意味の「リアリズム」と、戯曲の「リアリズム」とは意味が異なることに注意が必要。
  • オーギュースト・コントの社会学に影響を受けた劇作家たちによって始められた。

叙事詩

  • 複数のストーリーラインを持ち、それらがさまざまな場所で、はるかな時代にまたがって展開する劇作形式。
  • リアリズムでは「問題の原因を特定し、それを予測して回避する」ことが可能だと考えるのに対して、叙事詩劇では、「世界はあまりにも複雑なため、事態を前もって予測することはできない(原因をあとから知ることはできるとしても)」と考える。
  • では叙事詩劇を支配する法則はないのかといえばそうではなく、リアリズムにおける因果律のかわりに、道徳的秩序が世界を支配する。
  • 劇中で起きる多くの重大な変化は、登場人物たちの言葉や行動によって引き起こされる。一方で、出来事の偶然の組み合わせや、自然災害、戦争、動乱などの外的な力によって引き起こされるものもある。
  • 多くの変化はのちの展開の引き金となる。しかし、リアリズムほど厳密にそうである必要はない。
  • 叙事詩劇はただ地理的・時間的スケールの大きな劇というだけではなく、道徳律に支配された世界を表すための形式であることに注意が必要。
  • アリストテレスは『詩学』で叙事詩劇を批判したが、それを受け継いだ西ローマ帝国の滅亡によってそれが忘れ去られ、やがて西ヨーロッパに叙事詩劇の土台が作られた。そして、シェイクスピアがこれを大きく発展させた。

ブレヒト叙事詩

  • 世界で起きる変化はすべて、人生の交差の結果として起き、長い年月をかけて、さまざまな場所で展開する。
  • 人間ひとりひとりが起こすことのできる変化は、幻想であるか、あり得ない。
  • 個々の登場人物の行動によって一時的に変化が生みだされる場合もあるが、容易に元どおりになったり、実際には何も起こらなかったのだということが明らかになる。
  • 舞台上のイリュージョンを壊すような演出がなされる。ストーリーのスムーズな流れを阻むような話を登場人物にさせたりして、観客に、自分が劇場にいるのだということを意識させる。そうすることで、観客の知性を刺激し、楽しませ、観客を芝居作りのパートナーとすることを意図する。
  • 古くは、プラトンが『国家』で演劇が観客の感情を高ぶらせることを批判した。そうした考えに則った新古典主義が冷たく知的に過ぎた一方で、それに対抗したロマン主義やメロドラマは感情過多に陥っていた。そこへベルトルト・ブレヒトが、初めて、感情を土台とする演劇に疑問を投げかけながら、実行可能な代案を示した。

不毛のヴィジョン

自然主義

  • 人生をありのままに舞台に乗せようとする試み。
  • 「現実の人生では、決して何も変わらない」という考え方に貫かれている。
  • 経済状況・遺伝・環境といった個々の人間にはどうしようもない要素が、人生に対して決定的な力を持つ。
  • 登場人物による変化を生み出そうとする試みは、大抵失敗する。変化を生み出したとしても、それは表面的なものであり、その人生の根底にある状況は、決して変わらない。
  • 変化が起こるとすれば、場面と場面の間や、舞台の外であり、舞台の上で起こるとすれば、何か別の些細なことが観客の関心を引きつけているときである。
  • リアリズムが細部を取り除いて赤裸々な本質のみを残すのに対して、自然主義はあくまで、ごたごたした細部もひっくるめて、世界を舞台にあげようとする。
  • 叙事詩劇とは異なり、道徳律のような抽象的なものが世界を支配するわけではない。世界のありようは、あくまで経済状況・遺伝・環境といった科学的な事実の結果である。
  • エミール・ゾラによって始められ、アントン・チェーホフコンスタンティンスタニスラフスキーによって決定づけられた。

不条理主義

  • 周囲の世界に目につくような変化をもたらそうとする人間の努力は不毛である、という理解にもとづく。
  • 言葉で意思を伝達しようとする努力は全て無駄であり、身振りで意思を伝達しようとする努力は全て馬鹿げており、私たちは意味のある関係を何一つ持てない、という信念を表現する。
  • 登場人物は変化を求めているが、変化を求めるがゆえに、必ず出発点に戻ってきてしまう。
  • 変化は、最終的に、事態が悪くなるという形で訪れる。
  • 堂々めぐりや重箱の隅をつつくような議論が行われ、あるいはそれを邪魔しようとして失敗する。
  • 堂々めぐりの議論のようなどこにも行き着かない要素を繰り返し見せるにあたって、少しずつ人物の登場の仕方を変えたり、出来事のなりゆきを変えたり、言葉を発する人物を変えたり、台詞を変えたりして、観客を飽きさせないようにする。
  • 戯曲の中の出来事や筋の展開の背景には、疎外感と恐怖が通底している。
  • 第二次世界大戦後にヨーロッパを襲った絶望感の中から「頼れる道徳規範や行動規範などはなく、自分が信ずることは自分で決めねばならない」とする実存主義が生まれたが、そう主張する実存主義者がまさにその主張を他人に信じさせようとする、という矛盾があった。不条理主義は、これを補完するかたちで生まれた。

ロマン主義

  • 人間は、自分が決して手に入れることのできないものを求めるように運命づけられている、というヴィジョン。
  • ハリウッド映画や、キャンドルにの灯りに照らされたディナーというような意味でのロマンではない。
  • ロマン主義においては、世界は善人と悪人に満ちており、その中間は非常に少ない。善人は素朴な生活を送り、悪人は裕福で洗練され、退廃した生活を送っている。
  • 善人である主人公は情熱的で、うまく言葉にできない激しい感情に突き動かされる。純粋な理想を信じており、まったく妥協することができないことが大きな苦悩を生むが、生まれながらの性格であるため、変えることも、理屈で説き伏せることもできない。
  • 感情は常に信用でき、心が告げることを論理で否定することは、決してできない。一方、嘘は知性によって作られ、知性は信用できない。
  • 感情を宇宙の中心に据え、感情の中でも最も精神的で説明のできない「愛」を最も重要なものとする。主人公は愛のために、他の一切を捨てる。それは一種の狂気である。
  • これらのような特徴を持つロマン主義は構造とは関係がないため、これまでにあげたどの劇作形式も取り得る。
  • ヨハン・ウォルフガング・フォン・ゲーテの『若きウェルテルの悩み』に影響を受けた作家グループによって始められた。

神秘のヴィジョン

表現主義

  • 最も重要な真理は、私たちの五感によって感じたり、記録したりすることのできる物質的世界の中では、それと知ることのできないものであると考える。
  • それは、人間精神の非合理的で、説明できない領域にある。
  • 表現主義は、日常の現実をグロテスクに歪めることによって、精神の力を目に見える形に表す。
  • そのためのテクニックとしては、舞台装置や小道具のデザイン、照明や音響の効果、ショッキングな言葉、誇張された衣装、グロテスクなメイクアップなどがあげられる。
  • 客観的な現実と似た世界を見せようという努力はまったく行われず、かわりに、私たちの頭や心の中に存在する世界に、物質的な形を与えようとする。
  • ストーリーはたいてい、最後まである方向に向かって逆戻りなく進む。それはたいてい、主人公にとって事態が悪くなるプロセスである。
  • ヨーロッパの工業国の生活が、断片的な混乱したものになるのと同時に出現し、第一次世界大戦によって深い傷を負った人々を飲みこんだ科学や近代的進歩に対する激しい幻滅を代弁した。

シュールレアリスム

  • 普通の論理に従わない神秘的な力によって引き起こされる体験を舞台に再現する。
  • 真の人間の思考は、論理に導かれるものでもなければ、意図的になされるものでもなく、イメージに導かれていて、自然発生的であると考える。
  • 論理的な言葉では説明できないが人間の行動の真の源となる衝動によって、世界は動いているという信念を表現する。
  • 戯曲は登場人物の行動を巡って展開することが多いが、重要なのはその行動ではなく、結果として舞台に出現させられる刺激的なイメージである。
  • 平凡なイメージを刺激的で意外な配列で並べたり、日常的な出来事・人物・場所のディテールを取り払ったり、平凡なものやイメージを遊び心を持って操作したりすることで、それを実現する。
  • 十九世期末に、表現主義とほぼ同時に出現し、1922 年頃からはアンドレ・ブルトンがその理論を先導した。*2

まとめ

『現代戯曲の設計』で説明されているさまざまなヴィジョンをまとめました。

個人的には、すぐれた戯曲の多くは、これらのヴィジョンの複数をとても効果的に組み合わせてつくられている、と感じます。

もちろん、これらのヴィジョンのうちどれにも収まらない戯曲や、そもそもこの「ヴィジョン」という枠組みでは説明できない戯曲のよさもあることでしょう。
とはいえ、戯曲を作るとき、また戯曲について考えるとき、とても有効な考え方を得た、と思っています。

この本を読んで、これから演劇を観たり、戯曲を読んだりするのがますます楽しみになりました。

ただ、アメリカ人の書いた本なので、具体例がすべて海外の戯曲で、実際の作品と結びつけながら読むことがもう一つうまくできなかったことだけが心残りです。
ガラスの動物園』や『セールスマンの死』、『ゴドーを待ちながら』といった名前は聞いたことがあるような有名戯曲も多く取り上げられていましたが、あいにくいずれも日本での公演予定は見つけることができていません。(数年前に上演された例は見つかったのですが……)
なので、(観る前に読むのは惜しいのですが)戯曲を買って読んでみるのがいいのかな……と思っているところです。

なお、こうしてブログにまとめてはみましたが、この本自体軽くて薄く、要所要所にまとめのページもあるので、興味のある方は買って持ち歩くというのもよいかもしれません。

現代戯曲の設計―劇作家はビジョンを持て!

現代戯曲の設計―劇作家はビジョンを持て!

P.S.

プログラマやめてないので、コードの話もそのうちします。

*1:もちろん、この考え方に異論がある方もいるでしょうし、それだけではない、と僕も思います。「あらゆる芸術作品は」というのはちょっと大上段すぎる、というのももっともです。それでも、この視点は決定的に重要だと感じたので(また、この本がこの考え方を前提に話を進めるため)、まずは引用させてもらいました。

*2:ただし、ブルトン自身はシュールレアリスムによる舞台には否定的だった。

モダンスイマーズ「悲しみよ、消えないでくれ」を三日連続で見てきたので感想を述べます

近所でやってたモダンスイマーズの舞台「悲しみよ、消えないでくれ」を、三日も続けて見てしまいました。

これは最初に見に行った日(1 月 30 日)の感想(ツイートまとめ)。

初日にすっかり熱が上がってしまって二日目、も驚いたことにまだだいぶ熱かったので、結局最終日となる今日も、当日券の列に並んでしまいました。

もう見ることはないので、ここいらで三日ぶんの感想をまとめてみます。

脚本

まず作・演出の蓬莱竜太というひとの脚本、がとてもよいらしい。

人物の描き方

登場人物のそれぞれの性格というか人物像、関係性は、序盤から鮮やかに描き出されていた。

初めて見たときには、描き方がくっきりはっきりしすぎていて、なんかワザトラシイな気持ち悪いな、人間こんなにはっきりと性格をあらわにしながら喋るだろうか、とさえ感じていたのだけど、終盤に謎の強烈な巻き込み技を食わされて、打ちのめされてしまい、そんなことを感じていたことはすっかり忘れてしまった。

つまり、必要で、そうしているのだろう。
実際、二回目以降に見たときには、終盤の巻き込み技のための仕込みが序盤から丹念に凝らされていたことに気づく。
2 時間でそこまで持っていくために必要な仕込みのために、多少わざとらしく感じられてしまうくらいの人物描写は必要で、それを意図的にやっているのだろう、という気がする。

また、鮮やかすぎた人物像が、後半からずるっ、と横滑りを起こしたり、ときにはほとんど裏返し(裏返しというのはつまり、もともとあった裏側が見えただけなのだけど)になったりする場面も出てくる。そのことのショックも、人物の描き方のうまさがあってはじめて、生まれているのだと思う。

はじめはただのステレオタイプに見えた人物描写や会話にも、実は小さなヒビが仕込まれていたりする。
それでいて、そういった描写が単なる道具に成り下がっていなくて、最後にはそれぞれに立体的な人間が登場している。

見事だと思います。

終盤の展開

終盤の展開はことのほか見事で、あれよあれよという間に怒りが連鎖して、ずるりずるりと、悪意と事実が引き出されていく。

このあたりで、完全に舞台に巻き込まれてしまう。(ということに、二回目でようやく気づいた)

繰り返しになるけれど、この終盤の展開を引き出すための仕込みが序盤から中盤までのあいだにきっちりと行われていて、それらの仕掛けをテンポよく発動させていく様子が、二回目三回目に見たときは、言わば不謹慎ながら、よくできたマジックショーの裏側を見ているようでもあった。

なんだかよく考えてみると、こんなにテンポよく悪意が連鎖することってあるだろうか(誰でもいいから誰か止めろよ)、という気も今してきたのだけど、そこは演出や演技の妙で、うまく見せられたということだろうか。
でも、やっぱり、この状況が用意されれば(用意されうる)、現実にも起こりうることで、脚本の妙、という気もする。

笑いの配置と構造

特に最初の日には、周りがやたら笑うもんだからうっさいなー、とさえ感じたりもしていたのだけど、たしかに、会話のそこここにはちょっとした笑いがちりばめられている。

笑いの配置

特に三日目は、(千秋楽の気負いもあってか)それまでの二日と比べてちょっと台詞のミスや演技のムラが目立って、舞台のバランスを崩しかける場面が何度かあったと思うのだけれど、そのたびに笑いが登場して、舞台を立てなおしていたように感じた。
これには、感心した。そういう効果もあったのか、と。

笑いの構造

ただ、笑いの多くはかなしみの色を濃く含んだ笑いだったはず、ということも言いたい。
会話を単体で取り出して鑑賞すれば「笑える」ものが多いのは確かなのだけど、登場人物の真剣さというか、登場人物にとっての切実さを思うと、笑えないというか、ちょっと面白く感じても、保留にしたくなる場面というのが多かった。

もちろん、大声で笑える場面もあったけど。
たとえば、寛治さんが一葉の思い出を語っているとき、背景でゆり子がようかい体操第一を大声で歌い続けた結果、寛治さんが「もう何なんだよ!」と言って出ていく場面。あれは、笑いがきっちりと用意されていて、大笑いしてしかるべき場面だったと思う。とはいえ、あのようかい体操第一も、やっぱり、かなしい。

まあ、この笑いの問題は、もしかしたら僕に観劇のセンス(「笑うべきところ」で笑う)が身についていないということもあるのかもしれない。

登場人物と同じ地平に立つと、とてもじゃないけど、笑えない。一段上から「鑑賞」している立場であれば、たしかに、笑えると思う。
そういう観劇の仕方をしている人が、けっこう多いということか。いいとか悪いとかではなくて。

演出

演出もすごくよかった、と思う。

人物の配置

なかなかうまく説明できないのだけど、要所要所で、しかるべき人物がしかるべき場所にいて、人物の配置だけで(極端なことを言うと、そこで台詞を止めてしまっても)饒舌にドラマが語られている、という感覚を受けることが多かった。

人物の向き

そういった人物の配置とあわせて丁寧だったのが、各人物の身体の向け方と、視線の送り方。

誰か(A)が誰か(B)の話を始めたとき、その誰か(B)は、もちろんそちらに視線を向ける。あるいは、身体を向ける。それから、表情も。
また、(話している人は気づいていないけど)実はその会話に大いに関係がある誰か(C)も、鋭い視線を送っている。
それらの所作の選択の仕方がとても自然で、嘘がない感じを強めるのに貢献していたと思う。

これらはまあ当たり前といえば当たり前なのかもしれないけど、どこにも隙が見つからなくて、しびれた。
この「実は関係がある誰か(C)」は、プロット上、梢であることが多いのだけど、その都度きっちりと視線を送っていて、よかった。

また、物語の終盤では誰かと誰かの対立構造が色々と立ち上がるのだけど、そのときの、射るような顔の向け方、表情、視線。
特に、一葉が山を下りた本当の理由が明らかになったときのそれぞれの表情、視線、その向け方、タイミング。
見事だった。

舞台の配置

今回のシアターイーストは、以下の座席表の、パターン B の配置だった。

https://www.geigeki.jp/house/pdf/east.pdf

つまり、舞台を観客が三方から囲むかたち。

この舞台配置も、とてもうまくいっていたと思う。 というのも、今まで説明してきたようなことごとのよさが、この四隅までを活用できる舞台を見事に活かした結果だったと思うからだ。

四隅までを広く使うことで、人物配置の解像度を高くできていたし、「前後(奥行き)」と「左右(下手・上手)」という概念の違いがあまりはっきりしないことで、人物を二次元的に自由に配置することができていたと思う。

そして、それぞれの(すべての)観客と舞台との距離が、とても近くなる。
特に初日はとても近くて、あやうく舞台上の会話に口を出しそうになったのは、もちろんその会話のもどかしさもあったけれど、この舞台との近さも大いに背中を押していた。(あぶなかった)

ただ、やっぱり正面から見ないと勘所がわからなかったな、という場面は正直いくつかあった。
こうなっていたのか、という。
人物の配置・向きについては、やっぱり正面側からのほうが断然よく見通すことができた。正面から見たときにもっとも美しくなるように配置されていた場面が多かったと思う。

人物以外では、たとえば最後の吹雪の演出なんかは、横から見ていた初日にはすっかり「???」となっていたのだけど、正面側から見ていた二日目・三日目には、美しいと感じられた。*1

でも、それは舞台が近くなることとのトレードオフで、梢の(姉の)「下は、楽しい」の台詞で一番大泣きしたのは右から見ていた初日だったわけだから、この配置はよかった、とはっきり言いたい。

同時多発的な会話

おそらく特徴的だったと思われるのが、同時多発的な会話。

これもすごく面白くて、同時に全部聞き取ることはできない。でも、がんばれば微妙に聞き取れなくもない。笑

少なくとも、一つは追うことができる。
まあそれぞれの関係にそれぞれのドラマがあるわけだけど、たぶんクライマックスのために決定的に重要な会話は、(もちろんというべきか)同時多発の中ではなされていなかったと思う。

だから、先ほどの舞台配置の話にもつながるのだけど、席によって特定の会話の聞き取りやすさにかなり差があって、三日間でそれぞれ違ったドラマに注目することができた。
どの筋を追っていてもそれぞれに面白かったし、かつストーリーに遅れることはなかったので、これは脚本のうまさでもあったのだろうと思う。

平田オリザの『演技と演出』という本にもこの同時多発的な会話のことが書かれていて、実際に見たのは初めてだったのでおおっ、と思ったのだけど、僕はとても面白い試みだと思った。
ぜひまたこういう演出を見てみたい。

演技

僕は長いこと人間にあまり興味がなかったので(最近はめっちゃある)、演技について正しいことはほとんど言えないかもしれない。
という前提を置きながら、一応感想を言ってみる。

寛治さん(でんでん)

今回の舞台は、やはりこの人あってのものだったのだろう。

空気を作る力がある。

年齢や、配役上の立場の問題もあるだろうけど、この人が動くことで場が動く、そのことに確かな説得力があって、舞台を安定させていたと思う。

それだけに、最終日に少々台詞が不安定だったことで、場も不安定になってしまっていたのは、残念だった。(それでも十分よかったといえば、よかったけど)

最終日に関しては、最後の場面で「行かないで」から「行かないでくれ」を言うまでの所作が違って、あれはとてもよかった。
「行かないでくれ」が早いな、とそれまでの二日間、思っていたのですよね。余韻がないな、と。

あそこは最終日では一番の名演だった、と個人的には思う。

忠男(古山憲太郎

だめな男だ。

と感じている時点で、好演だったのだろう、と思う。笑

クライマックスの「ホンットーにホントーに(中略)俺だけがダメなんですか」の場面は、初日、しびれまくった。
ダメなんだけど。まともな人間はそんなこと絶対に口に出して言わないんだけど。でも、当人にしかわからないことがある、というのもどうしようもなく事実で、なんかうまく説明できないんだけど、そのうまく説明できなさをそのままうまく説明できなさとして見せた、名演だったと言ってよい気がする。

あのシーン、最終日だけだいぶテンションが違って(一段と熱が高かった)ちょっと困惑したけど、あれはあれで凄みがあった。

梢(生越千晴)

中学生かな、と思って調べてみたら、22 歳らしい。まずそこでびびった。

というのは冗談として、これまた好演だった。
表情の乏しさ、声の表情の乏しさ、時おり見せる感情の確かさ、と同時にやはり抑制のされ方。

ゆり子が「大丈夫かな」と笑ったように、その一種の中学生っぽさというか、思春期っぽさがしっかり出せていたから、中学生みたいにも見えたのだろう。

ほとんど喋らないんだけど、その分一つ一つの所作や台詞が結構だいじで、それらの一つ一つがきっちりやられていて、物語的にも重要な立ち位置を、序盤から終盤まで確かに占め続けることができていたように思う。
もしかしたら、演出のよさも大きかったかも。

それだけに、最終日の、姉からの電話の内容を伝える場面で、それまで見せなかった生の感情っぽいものがぼろっと出てしまったのは、ほんとうに惜しかった。
一昨日と、昨日はロボットみたいな声で、完璧だったのに。

どうだろう。そこで感情が出てしまう、という演出も、もしかしたらアリなんだろうか。
でも僕にはそれはミスに感じられたし、一気にリアリティが失われてしまった場面だった。感情にしては、なんだか中途半端だ。少なくとも、舞台の上では。

清一郎さん(西條義将)

与えられた役回りをきっちり演じていた、という印象。
特にここがすごくいい、と思った記憶もないけれど、役回りに対して過不足ない演技ができていた、という気がする。

ゆり子(今藤洋子)

この人の演技がかなりよかった。
あるいは、好きだった。

会話での何気ない笑い方とか、基本的には善人というか常識人なんだけどちょっと野次馬根性が過ぎるところとか、この人がいることで、舞台に絶妙なリアリティが生まれていたように思う。

紺野(小椋毅)

こういうおっさんにはなりたくない、と思った。
まあ、ならないと思うけど。

この人もやっぱり、与えられた役回りを過不足なく、という印象かな。

演技と関係ないけど、「ああ、山よ。山々よ」は名台詞ですね。

陽菜さん(伊東紗保)

ほんとに演技でやってる? と思った。
いや、演技でやってんだろうけどさ……。

演技でやっててほしい。

個人的には、寛治さんが「男と女なんだから、色々あるよね」って聞いたときの間髪を入れない「はい」が絶妙で、大好きだった。(特に一日目がよかった)

表情の作り方もわかりやすくて、よい。しかるべきタイミングでしかるべき表情をしていて、うん、この人もリアリティを加えていたと思う。
いや、でもほんとに演技でやってんのかな……。

友之くん(津村知与支)

この人も、好演、という印象がある。

のはたぶん、キレる場面でのキレ方にリアリティがあったからだろうか。
酔ってもいないのに、よくあれだけ悪酔いした人の特徴を出せるものだと思う。特に羽交い締めにされたあとの抵抗の仕方がすごくリアルで、よかった。*2

美術・音楽

ほとんどよかったばっかりだけど、それに漏れず、美術・音楽もよかったと思う。

美術

山小屋が、たしかに現出していた。
宙に浮いた柱(梁?)とか、各場面でのライトの当て方とか、雪の見せ方とか、どれも芝居を損ねず、リアリティだけを底上げしていて、とても素敵だった。

特に初日は見たあとのショックが大きくて、しばらく舞台を眺めていたのだけど、そこは決して舞台にはならなくて、ずっと山小屋のままだった。

音楽

どの場面の選曲も、音量も、適切だったように思う。

特に気に入ったのが、飲みの場面で流れていた外国語の曲。(全音符ストリングスが入るやつ)
山小屋で、みんなで遅くまで飲むことの楽しさ、とちょっと不思議な寂しさが、あの曲によってとても大きく見せられていた。

なんて曲なんだろう……。真剣に、ほしい。

まとめ

すっかり長くなってしまった。

具体的なことを書き始めるとキリがなくなるので、あまり具体的なことは書かなかったけれど、読んでくれた人に少しでもよさが伝わっているといい、と思う。

同じ芝居を三回も見たのは(もちろんというべきか)初めてで、それだけ一日目が衝撃的だった。

そして二日目(昨日)も同じくらいのエネルギーがあって、すごい、すごいと思っていたのだけど、最終日である今日は、残念ながら昨日までの二日間ほどのものを見ることはできなかった(と、僕は思った)。
セリフの抜けやつっかえがちょくちょくあったり、そこから連鎖してか、間が悪かったり、セリフが過熱したりした場面も見られた。

もちろん、基本的な水準が高いからそういう細かいところが気になる、ということも言えるのだけど、逆に、初日のあの衝撃は、「基本的な水準」どころではない緻密な演技の積み重ねで生み出されていたのだろう、ということも思う。

芝居はナマモノだ、ということがよくわかって、自分がやるわけでもないのに空恐ろしさを感じてしまったりもした。

でも、やっぱりこれからも芝居を見ると思う。
こんなすごいものがあるなんて知ってしまったら、こわいものがあるとしても、見ないではいられない。

ダンスイマーズおよび関係者の皆さん、すばらしい舞台を見せてくれてありがとうございました。

*1:ただ、ちょっと蛇足だったような気は、今もしているけど

*2:ただ何というか例によって、なのだけど、今日は昨日までに比べるとちょっとだけ、イマイチだったと思う……。

モダンスイマーズ「悲しみよ、消えないでくれ」を見たら脳神経がショートしたっぽくて終盤の展開をよく覚えていないのでもう一度見に行こうと思う

東京芸術劇場が歩いて行ける場所にあるからってだけの理由で見に行った芝居が、とてもよかったみたいです。*1

というわけで、日曜にもう一度当日券に並ぼうと思います。

出るといいな……。
今日もたくさん並んでいたので、早めに行こうと思っています。

*1:脳神経がショートしてしまったので、モヤモヤしてよくわかってません