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この国では犬が

本と芝居とソフトウェア

モダンスイマーズ「悲しみよ、消えないでくれ」を三日連続で見てきたので感想を述べます

芝居

近所でやってたモダンスイマーズの舞台「悲しみよ、消えないでくれ」を、三日も続けて見てしまいました。

これは最初に見に行った日(1 月 30 日)の感想(ツイートまとめ)。

初日にすっかり熱が上がってしまって二日目、も驚いたことにまだだいぶ熱かったので、結局最終日となる今日も、当日券の列に並んでしまいました。

もう見ることはないので、ここいらで三日ぶんの感想をまとめてみます。

脚本

まず作・演出の蓬莱竜太というひとの脚本、がとてもよいらしい。

人物の描き方

登場人物のそれぞれの性格というか人物像、関係性は、序盤から鮮やかに描き出されていた。

初めて見たときには、描き方がくっきりはっきりしすぎていて、なんかワザトラシイな気持ち悪いな、人間こんなにはっきりと性格をあらわにしながら喋るだろうか、とさえ感じていたのだけど、終盤に謎の強烈な巻き込み技を食わされて、打ちのめされてしまい、そんなことを感じていたことはすっかり忘れてしまった。

つまり、必要で、そうしているのだろう。
実際、二回目以降に見たときには、終盤の巻き込み技のための仕込みが序盤から丹念に凝らされていたことに気づく。
2 時間でそこまで持っていくために必要な仕込みのために、多少わざとらしく感じられてしまうくらいの人物描写は必要で、それを意図的にやっているのだろう、という気がする。

また、鮮やかすぎた人物像が、後半からずるっ、と横滑りを起こしたり、ときにはほとんど裏返し(裏返しというのはつまり、もともとあった裏側が見えただけなのだけど)になったりする場面も出てくる。そのことのショックも、人物の描き方のうまさがあってはじめて、生まれているのだと思う。

はじめはただのステレオタイプに見えた人物描写や会話にも、実は小さなヒビが仕込まれていたりする。
それでいて、そういった描写が単なる道具に成り下がっていなくて、最後にはそれぞれに立体的な人間が登場している。

見事だと思います。

終盤の展開

終盤の展開はことのほか見事で、あれよあれよという間に怒りが連鎖して、ずるりずるりと、悪意と事実が引き出されていく。

このあたりで、完全に舞台に巻き込まれてしまう。(ということに、二回目でようやく気づいた)

繰り返しになるけれど、この終盤の展開を引き出すための仕込みが序盤から中盤までのあいだにきっちりと行われていて、それらの仕掛けをテンポよく発動させていく様子が、二回目三回目に見たときは、言わば不謹慎ながら、よくできたマジックショーの裏側を見ているようでもあった。

なんだかよく考えてみると、こんなにテンポよく悪意が連鎖することってあるだろうか(誰でもいいから誰か止めろよ)、という気も今してきたのだけど、そこは演出や演技の妙で、うまく見せられたということだろうか。
でも、やっぱり、この状況が用意されれば(用意されうる)、現実にも起こりうることで、脚本の妙、という気もする。

笑いの配置と構造

特に最初の日には、周りがやたら笑うもんだからうっさいなー、とさえ感じたりもしていたのだけど、たしかに、会話のそこここにはちょっとした笑いがちりばめられている。

笑いの配置

特に三日目は、(千秋楽の気負いもあってか)それまでの二日と比べてちょっと台詞のミスや演技のムラが目立って、舞台のバランスを崩しかける場面が何度かあったと思うのだけれど、そのたびに笑いが登場して、舞台を立てなおしていたように感じた。
これには、感心した。そういう効果もあったのか、と。

笑いの構造

ただ、笑いの多くはかなしみの色を濃く含んだ笑いだったはず、ということも言いたい。
会話を単体で取り出して鑑賞すれば「笑える」ものが多いのは確かなのだけど、登場人物の真剣さというか、登場人物にとっての切実さを思うと、笑えないというか、ちょっと面白く感じても、保留にしたくなる場面というのが多かった。

もちろん、大声で笑える場面もあったけど。
たとえば、寛治さんが一葉の思い出を語っているとき、背景でゆり子がようかい体操第一を大声で歌い続けた結果、寛治さんが「もう何なんだよ!」と言って出ていく場面。あれは、笑いがきっちりと用意されていて、大笑いしてしかるべき場面だったと思う。とはいえ、あのようかい体操第一も、やっぱり、かなしい。

まあ、この笑いの問題は、もしかしたら僕に観劇のセンス(「笑うべきところ」で笑う)が身についていないということもあるのかもしれない。

登場人物と同じ地平に立つと、とてもじゃないけど、笑えない。一段上から「鑑賞」している立場であれば、たしかに、笑えると思う。
そういう観劇の仕方をしている人が、けっこう多いということか。いいとか悪いとかではなくて。

演出

演出もすごくよかった、と思う。

人物の配置

なかなかうまく説明できないのだけど、要所要所で、しかるべき人物がしかるべき場所にいて、人物の配置だけで(極端なことを言うと、そこで台詞を止めてしまっても)饒舌にドラマが語られている、という感覚を受けることが多かった。

人物の向き

そういった人物の配置とあわせて丁寧だったのが、各人物の身体の向け方と、視線の送り方。

誰か(A)が誰か(B)の話を始めたとき、その誰か(B)は、もちろんそちらに視線を向ける。あるいは、身体を向ける。それから、表情も。
また、(話している人は気づいていないけど)実はその会話に大いに関係がある誰か(C)も、鋭い視線を送っている。
それらの所作の選択の仕方がとても自然で、嘘がない感じを強めるのに貢献していたと思う。

これらはまあ当たり前といえば当たり前なのかもしれないけど、どこにも隙が見つからなくて、しびれた。
この「実は関係がある誰か(C)」は、プロット上、梢であることが多いのだけど、その都度きっちりと視線を送っていて、よかった。

また、物語の終盤では誰かと誰かの対立構造が色々と立ち上がるのだけど、そのときの、射るような顔の向け方、表情、視線。
特に、一葉が山を下りた本当の理由が明らかになったときのそれぞれの表情、視線、その向け方、タイミング。
見事だった。

舞台の配置

今回のシアターイーストは、以下の座席表の、パターン B の配置だった。

https://www.geigeki.jp/house/pdf/east.pdf

つまり、舞台を観客が三方から囲むかたち。

この舞台配置も、とてもうまくいっていたと思う。 というのも、今まで説明してきたようなことごとのよさが、この四隅までを活用できる舞台を見事に活かした結果だったと思うからだ。

四隅までを広く使うことで、人物配置の解像度を高くできていたし、「前後(奥行き)」と「左右(下手・上手)」という概念の違いがあまりはっきりしないことで、人物を二次元的に自由に配置することができていたと思う。

そして、それぞれの(すべての)観客と舞台との距離が、とても近くなる。
特に初日はとても近くて、あやうく舞台上の会話に口を出しそうになったのは、もちろんその会話のもどかしさもあったけれど、この舞台との近さも大いに背中を押していた。(あぶなかった)

ただ、やっぱり正面から見ないと勘所がわからなかったな、という場面は正直いくつかあった。
こうなっていたのか、という。
人物の配置・向きについては、やっぱり正面側からのほうが断然よく見通すことができた。正面から見たときにもっとも美しくなるように配置されていた場面が多かったと思う。

人物以外では、たとえば最後の吹雪の演出なんかは、横から見ていた初日にはすっかり「???」となっていたのだけど、正面側から見ていた二日目・三日目には、美しいと感じられた。*1

でも、それは舞台が近くなることとのトレードオフで、梢の(姉の)「下は、楽しい」の台詞で一番大泣きしたのは右から見ていた初日だったわけだから、この配置はよかった、とはっきり言いたい。

同時多発的な会話

おそらく特徴的だったと思われるのが、同時多発的な会話。

これもすごく面白くて、同時に全部聞き取ることはできない。でも、がんばれば微妙に聞き取れなくもない。笑

少なくとも、一つは追うことができる。
まあそれぞれの関係にそれぞれのドラマがあるわけだけど、たぶんクライマックスのために決定的に重要な会話は、(もちろんというべきか)同時多発の中ではなされていなかったと思う。

だから、先ほどの舞台配置の話にもつながるのだけど、席によって特定の会話の聞き取りやすさにかなり差があって、三日間でそれぞれ違ったドラマに注目することができた。
どの筋を追っていてもそれぞれに面白かったし、かつストーリーに遅れることはなかったので、これは脚本のうまさでもあったのだろうと思う。

平田オリザの『演技と演出』という本にもこの同時多発的な会話のことが書かれていて、実際に見たのは初めてだったのでおおっ、と思ったのだけど、僕はとても面白い試みだと思った。
ぜひまたこういう演出を見てみたい。

演技

僕は長いこと人間にあまり興味がなかったので(最近はめっちゃある)、演技について正しいことはほとんど言えないかもしれない。
という前提を置きながら、一応感想を言ってみる。

寛治さん(でんでん)

今回の舞台は、やはりこの人あってのものだったのだろう。

空気を作る力がある。

年齢や、配役上の立場の問題もあるだろうけど、この人が動くことで場が動く、そのことに確かな説得力があって、舞台を安定させていたと思う。

それだけに、最終日に少々台詞が不安定だったことで、場も不安定になってしまっていたのは、残念だった。(それでも十分よかったといえば、よかったけど)

最終日に関しては、最後の場面で「行かないで」から「行かないでくれ」を言うまでの所作が違って、あれはとてもよかった。
「行かないでくれ」が早いな、とそれまでの二日間、思っていたのですよね。余韻がないな、と。

あそこは最終日では一番の名演だった、と個人的には思う。

忠男(古山憲太郎

だめな男だ。

と感じている時点で、好演だったのだろう、と思う。笑

クライマックスの「ホンットーにホントーに(中略)俺だけがダメなんですか」の場面は、初日、しびれまくった。
ダメなんだけど。まともな人間はそんなこと絶対に口に出して言わないんだけど。でも、当人にしかわからないことがある、というのもどうしようもなく事実で、なんかうまく説明できないんだけど、そのうまく説明できなさをそのままうまく説明できなさとして見せた、名演だったと言ってよい気がする。

あのシーン、最終日だけだいぶテンションが違って(一段と熱が高かった)ちょっと困惑したけど、あれはあれで凄みがあった。

梢(生越千晴)

中学生かな、と思って調べてみたら、22 歳らしい。まずそこでびびった。

というのは冗談として、これまた好演だった。
表情の乏しさ、声の表情の乏しさ、時おり見せる感情の確かさ、と同時にやはり抑制のされ方。

ゆり子が「大丈夫かな」と笑ったように、その一種の中学生っぽさというか、思春期っぽさがしっかり出せていたから、中学生みたいにも見えたのだろう。

ほとんど喋らないんだけど、その分一つ一つの所作や台詞が結構だいじで、それらの一つ一つがきっちりやられていて、物語的にも重要な立ち位置を、序盤から終盤まで確かに占め続けることができていたように思う。
もしかしたら、演出のよさも大きかったかも。

それだけに、最終日の、姉からの電話の内容を伝える場面で、それまで見せなかった生の感情っぽいものがぼろっと出てしまったのは、ほんとうに惜しかった。
一昨日と、昨日はロボットみたいな声で、完璧だったのに。

どうだろう。そこで感情が出てしまう、という演出も、もしかしたらアリなんだろうか。
でも僕にはそれはミスに感じられたし、一気にリアリティが失われてしまった場面だった。感情にしては、なんだか中途半端だ。少なくとも、舞台の上では。

清一郎さん(西條義将)

与えられた役回りをきっちり演じていた、という印象。
特にここがすごくいい、と思った記憶もないけれど、役回りに対して過不足ない演技ができていた、という気がする。

ゆり子(今藤洋子)

この人の演技がかなりよかった。
あるいは、好きだった。

会話での何気ない笑い方とか、基本的には善人というか常識人なんだけどちょっと野次馬根性が過ぎるところとか、この人がいることで、舞台に絶妙なリアリティが生まれていたように思う。

紺野(小椋毅)

こういうおっさんにはなりたくない、と思った。
まあ、ならないと思うけど。

この人もやっぱり、与えられた役回りを過不足なく、という印象かな。

演技と関係ないけど、「ああ、山よ。山々よ」は名台詞ですね。

陽菜さん(伊東紗保)

ほんとに演技でやってる? と思った。
いや、演技でやってんだろうけどさ……。

演技でやっててほしい。

個人的には、寛治さんが「男と女なんだから、色々あるよね」って聞いたときの間髪を入れない「はい」が絶妙で、大好きだった。(特に一日目がよかった)

表情の作り方もわかりやすくて、よい。しかるべきタイミングでしかるべき表情をしていて、うん、この人もリアリティを加えていたと思う。
いや、でもほんとに演技でやってんのかな……。

友之くん(津村知与支)

この人も、好演、という印象がある。

のはたぶん、キレる場面でのキレ方にリアリティがあったからだろうか。
酔ってもいないのに、よくあれだけ悪酔いした人の特徴を出せるものだと思う。特に羽交い締めにされたあとの抵抗の仕方がすごくリアルで、よかった。*2

美術・音楽

ほとんどよかったばっかりだけど、それに漏れず、美術・音楽もよかったと思う。

美術

山小屋が、たしかに現出していた。
宙に浮いた柱(梁?)とか、各場面でのライトの当て方とか、雪の見せ方とか、どれも芝居を損ねず、リアリティだけを底上げしていて、とても素敵だった。

特に初日は見たあとのショックが大きくて、しばらく舞台を眺めていたのだけど、そこは決して舞台にはならなくて、ずっと山小屋のままだった。

音楽

どの場面の選曲も、音量も、適切だったように思う。

特に気に入ったのが、飲みの場面で流れていた外国語の曲。(全音符ストリングスが入るやつ)
山小屋で、みんなで遅くまで飲むことの楽しさ、とちょっと不思議な寂しさが、あの曲によってとても大きく見せられていた。

なんて曲なんだろう……。真剣に、ほしい。

まとめ

すっかり長くなってしまった。

具体的なことを書き始めるとキリがなくなるので、あまり具体的なことは書かなかったけれど、読んでくれた人に少しでもよさが伝わっているといい、と思う。

同じ芝居を三回も見たのは(もちろんというべきか)初めてで、それだけ一日目が衝撃的だった。

そして二日目(昨日)も同じくらいのエネルギーがあって、すごい、すごいと思っていたのだけど、最終日である今日は、残念ながら昨日までの二日間ほどのものを見ることはできなかった(と、僕は思った)。
セリフの抜けやつっかえがちょくちょくあったり、そこから連鎖してか、間が悪かったり、セリフが過熱したりした場面も見られた。

もちろん、基本的な水準が高いからそういう細かいところが気になる、ということも言えるのだけど、逆に、初日のあの衝撃は、「基本的な水準」どころではない緻密な演技の積み重ねで生み出されていたのだろう、ということも思う。

芝居はナマモノだ、ということがよくわかって、自分がやるわけでもないのに空恐ろしさを感じてしまったりもした。

でも、やっぱりこれからも芝居を見ると思う。
こんなすごいものがあるなんて知ってしまったら、こわいものがあるとしても、見ないではいられない。

ダンスイマーズおよび関係者の皆さん、すばらしい舞台を見せてくれてありがとうございました。

*1:ただ、ちょっと蛇足だったような気は、今もしているけど

*2:ただ何というか例によって、なのだけど、今日は昨日までに比べるとちょっとだけ、イマイチだったと思う……。