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この国では犬が

本と芝居とソフトウェア

スクラムをやっているチームで育った子はスクラムをやらないチームでやっていけないのでは仮説

ソフトウェア 仕事

スクラムは、すべてを明らかにするフレームワークです。

スクラムに取り組むことで、何もかもがスクラムチームのもとに明らかになっていき、(プロダクト開発にまつわる)悩みや苦しみを個人で抱えこむといったことはとても少なくなります。*1

あ……、とは言いながら、僕はまだスクラムをやっているわけではなくて、『アジャイルな見積りと計画づくり』や『アジャイルサムライ』を読んで、イテレーティブでインクリメンタルな開発をしていこうよ、という機運のもとソフトウェアを開発している一介の開発者にすぎないのですが、先日、日本で唯一の認定スクラムトレーナーである江端さんが講師をつとめる認定スクラムマスター研修に参加し、世間知にまみれまくった認識を色々とひっくり返されてピュアになり、それなりにスクラムが何なのか理解できたつもりなのが今です。今所属しているプロジェクトで、これからはきちんとスクラムフレームワークに則ってみようということになり、色々と準備をしています。(というか、徐々に始めています)

スクラムはすべてを明らかにし、悩みや苦しみは共有される

閑話休題

繰り返すと、スクラムに取り組むことで、何もかもがスクラムチームのもとに明らかになっていき、(プロダクト開発にまつわる)悩みや苦しみを個人で抱えこむといったことはとても少なくなるわけです。

事実、まあまだ完全なスクラムをやっているわけではないにせよ(むしろ、にも関わらず)僕が個人的に管理しているタスクの数(private な Trello のボードにあるカードの数)は、これくらい変わりました。

  • 始める前 : 100(±50)件程度
  • 現在 : 30 件くらい

もちろん、タスクの粒度が大きくなったとか、単に管理しなくなったとかいうことではなく、消えたアイテムはすべてチームが知るところのタスク、具体的には壁やホワイトボードに貼られた付箋になっています。*2

この調子でいくと、たぶん個人用の Trello のボードは捨てることになるな、と思っています。
あるいは残すにしても、もっとシンプルな Todo リストのようなものになるか。

そして、100件→ 30 件になった現時点で、既に以下のような心境です。

清々しいんです。
清々しすぎて、いいのかしらという何か罪悪感みたいなものすら覚えます。

個人で何か抱えたときのストレスがヤバイ

とは言いながら、まだほんとのスクラムを始めていないので、ちょいちょい個人タスクみたいになっているものごとがあります。

そんな状況での一幕がこちら。

f:id:enk_enk:20160826204917p:plain

つらいんですよ。前よりも。
一人で何かを抱えるようなことになると。仕様が明らかになっていない状態で作り始めるようなことをすると。

以前はできたんです。3 ヵ月かかる機能の開発を仕様策定から設計・開発・テストまで、見積りからスケジュール管理まで、全部一人でやってましたよ。もちろん、必要に応じて相談しながらですけど……。
当然のようにやってたんです。まあ、きっと効率はよくなかったのでしょうけど。

かたや見積り 2 時間のタスク。タイムスパンで言っても一日。でつらいとか。
軟弱になっています。明らかに(不明瞭さへの)ストレス耐性が下がっています。

スクラムをやっているチームで育った子はスクラムをやらないチームでやっていけないのでは

そんなわけで、「スクラムをやっているチームで育った子はスクラムをやらないチームでやっていけないのでは」という心配をするに至ります。

正直に言って、自分のことは心配していません。

スクラムじゃない状態も知っているし、まあいざ必要となれば辛く厳しい戦場に戻っていくこともたぶんできます。*3
そういうところへ行っても、辛抱強く働きかけて、徐々にスクラムにしていけば(あるいは、もっとすぐれた別のやり方があれば、それにしていけば)いい、と思います。

でも、スクラムで育った子がいたとして、スクラムじゃないものをスクラムに変えていく方法も知らない、そんな子が、何らかの事情で突然放り出されることになってしまったら。
たとえば、会社が倒産したら?

全然余裕でした

スクラムというのがどういう状態かとてもよく知っているのだから、そういうものを求める組織に行けばいいだけですね。
簡単でした。

ただ、何らかの理由でそうじゃない組織に入ってしまうと、「(そうじゃないものと)比べながら戦略を立てたり説得できない」という点ではやや不利になるかもしれません。
また、そういうものを断固として受け付けそうにない、受け付ける余地のない組織に所属することも慎重に避けねばなりません。

そしてもちろん、ストレスがかかるでしょう。少なくともはじめは。
なんせその(ものごとがチームのもとで明らかになっていない)状態を知らないので、かなり強烈なストレスになるかもしれません。

ただ、結局それを先に味わうか後に味わうかという問題であって、「先に味わう」ことのコスト(生産性の低い時間を過ごすことのコスト)を計算に入れれば、先に味わう方がよい、とう結論は導きがたいように思います。

たぶんこれからの組織はスクラム(的なもの)になっていくはず

そして、スクラムの状態を知っておいたほうがよい、と言えるもう一つの理由が、(現時点でまだまだ多いと思われる)従来型の組織は、スクラムを活用する組織に置き換えられていくだろう、と予測できることです。
かっちりした根拠はないのですが、まあ、そっちの方がいいから、ですね。少なくとも営利組織にとっては。

もちろん、僕が知らないスクラム以外のプロダクト開発方法論はあるのかもしれませんし、ある程度それがスクラムに似ているということもあると思います。
従来型の「アサインされた(あるいは、個人が自主的に作り出した)タスクを抱え込む」スタイルよりも、「明らかにしていく」やり方のほうが優勢になっていくだろう、というのが論旨です。

スクラムをやりながらメンバーを育てよう

当然ながら、スクラムのスタイルによる見習いメンバーへのメリットも数多くあります。

  • うまくいくというのがどういうことかわかる
  • (単純に知識が少ないことが原因の)しょうもないハマりの時間が減り、どんどん新しいことを学習できる
  • 組織やプロダクト、チームの一部だけではなく、初めから全体を意識しながら仕事ができる
  • 「適応する」ということがどういうことか身をもって学べる

スクラムそのものはまだ始めていないのであまり多くは思いつきませんが、きっとまだ他にもあると思います。
こういうメリットのことを意識しながら経験の浅いメンバーを育てていくことができれば、きっとそのメンバーの成長にとってとても有意義な毎日になるはずです。

今気づいたのですが、特に最後のが重要で、この「適応する」という能力を持っていれば、たぶんあまりイケてない組織に放り出されることになっても、その人は何とかやっていけると思います。

よかった。
書き始めたときには本気で心配していたので、安心してしまいました。

最後にひと言

僕がこないだ学んだのがたまたまスクラムで、とてもよくできた(僕が知っている数少ない他のものよりもよい)システムだと感じたので「スクラム」という固有名詞を一貫して使いましたが、スクラムが嫌いな人は、別の言葉に置き換えて読んでもらってもよいです。「アジャイル」とかでも。

ただ、それが、人間というものを深く理解して作られたシステムで、ものごとを徹底的に白日のもとにさらして、それを調べ、適応し続けていくようなものであるならば。

*1:何もかもが明らかになることへの悩みや苦しみはあるかもしれませんが……

*2:先述のようにスクラムそのものはまだ始めていないので、モノによってはとりあえず貼ってるだけとかだったりするのですが、いずれスクラムの枠組みに吸収されます

*3:スクラムが厳しくないわけではないですが、別の種類の厳しさです

会話の豊饒、そして会話がないことの豊饒『宮本武蔵(完全版)』@東京芸術劇場

芝居

ブログの体裁を変えてから演劇の話ばっかりですが、書きます。

東京芸術劇場で『宮本武蔵(完全版)』を観ました。

musashi-stage.themedia.jp

作・演出の前田司郎さんの名前だけ知っていて、一度は見ておくか、ということで行ってみた公演。
これがすばらしかった。

冗長な豊饒な会話、会話

(もちろん)表題の通り、宮本武蔵を主人公とした話。

あらすじとしては、以下のようなものです。

伝説の剣豪として世に名を知らしめるも、その内面は臆病な男、宮本武蔵。
色々と疲れの溜まった武蔵は、湯治のため山奥の宿を訪れる。そこには様々な面々と出会うこととなる。
私たちが考える理想の武蔵像からかけ離れた主人公、宮本武蔵は皆から偽物ではないかと疑われる。
証明のしようもないが、本物と認められたら命を狙われる、しかし偽物と思われても面白くない。
疑心暗鬼の中で、武蔵に恨みをもつ者、討ち取って名を上げたい者、さまざまな思惑が重なって、物語は思いもよらない方向へ。
最後までヒーローらしさも小次郎との決闘もなく、そのだらしなさが笑いを誘う現代会話劇。
“本当の宮本武蔵は、こんなんだったのではないか!?”

(公式ページより引用)

観る前は、「笑えたらいいな~」くらいの期待がありました。

そして、笑えました。

会話劇。
それも、なんなら台詞(内容)そのものは思い出せないくらいの間投詞の嵐、嵐!

「え」「あ」「うん」「えっ」「いやいや」エトセトラエトセトラ、こういった類の言葉だけで構成されているんじゃないかと見紛うばかりの、会話。(よく思い出してみるとそんなこともなかったですが)

そうなんだ、人間の会話は。(特に、うまくやれない人間の会話は)
「くっくっく」という種類の笑いが漏れます。身に覚えがありすぎます

ちなみに、観客には比較的若い女性が多かったようで(たぶん……)、たびたび明るい笑い声も上がっていました。(あっイケメン俳優だからか……)
サービスシーンもありました。いい身体だったな~。(一部)

そして「貴殿」「拙者」「ござる」等々の時代劇風言葉遣いは申し訳程度に差し込まれ、現代日本語となんと自由に行き来すること!
明らかに不自然なんだけど、ぎこちなくはないんです。いやぎこちないんですけど。それを気にさせない謎の説得力。

もちろん問題は書かれたセリフの字面だけでなく、その速さ、大きさ、イントネーション、アクセント、間といったことにも及びます。
それらのすべてが、実に豊穣だった。

細かく指示を出しているのか、はたまた、どうやって作っているのかわかりませんが。
こういうのが観たいんですよ、演劇で。一つ前の記事でも書いたように。

enk.hatenablog.com

無言の時間の豊穣

そんなこんなで(劇中サクッと人が死んだりもするなか)終始実に楽しく観たのですが、この舞台が僕にとってきっと長いこと忘れられないであろうものになったのは、大詰めのシーンでした。

まずラストシーン。
武蔵と伊織のシーン。

伊織のあの無言、無言、動き、ゆっくりとした動き、震え、無言、客席の静寂、静寂、静寂、静寂。
自分自身を賭すこと。

去年の秋に観た『皆既食』のラストシーンを思い出しました。
似ているようで結構色々と違うのだけれど、美しさの程度では同じ。

そして、その全身全霊による賭けがむなしく終わること。(少なくとも、その場限りでは)
それが全身全霊による行いであることを知りながら、それをむなしく終わらせることしかできないこと。

観客をずっと遠くへ連れていきます。

それから、そのラストシーンを用意したと思うのが、直前のシーン。
武蔵とツルのシーン。

ここで決定的にすばらしい仕事をしたのが、ツルを演じた内田慈さんだと思うのです。
これまでずっとずっと、(まれに違うものが入っていたとしても)コメディ基調の演技と演出で進行してきた 2 時間を超えるこの舞台で、初めてはっきりとほんとうのことを持ち込んだ。

あのとき、客席が静かになった。
だから、ラストシーンが成立したのです。間違いなく。

このシーンも、ラストシーンほどではないものの、長い無言の時間がありました。
豊饒な、饒舌な無言の時間。

演劇はそれだけでいい

演劇に何を求めるかは人それぞれだと思いますが、僕はこういうラストシーンさえあれば、演劇はそれだけでいい、と思います。
そういうものを他で得たことがないので。

もっとも、そういうラストシーンを用意するには、そこまでの運びが十分巧みである必要があるのだと思いますが。(観客が途中でしらけたり寝てしまったら、どうしようもない)

それに、もちろんこの『宮本武蔵(完全版)』がラストシーンだけよかったということではなくて、終始とても楽しめる作品でした。
それでも僕は、このラストシーンを用意できる作家、演出家、スタッフそれから俳優を望むし、自分が演じるときもそうありたい、と思います。

次の月曜、2016/8/29(月)までやっています。
チケットは完売のようですが、当日券は出ているようです。気になっている方は、ぜひ。

演劇の好きなところ : コミュニケーション、内臓、からだ、想像力

芝居

さかのぼること 1 年半前に演劇に出会ってしまって、以来観ているし、やってもいる。

ガンカンジャという漫画がある

話はまったく変わって、ガンカンジャという Web コミックがある。

www.lezhin.com

たしか Facebook の広告で「感動の涙」みたいな雰囲気で紹介されていたと(おぼろげながら)記憶していて、ふだんは無視するのになぜクリックしたのかはよく思い出せないのだけれど、これが読み始めてみると感動の涙どころではなく、脳だか、全身だか、下手したら(僕の)世界をが くがくがくっと揺さぶるような作品で一気に読んでしまい、呆然とした。

なお完結していない。

さらに話は変わって、「ワンパンマン」という(いまや有名ですが)Web コミックがあって、ヘロヘロの絵とサイコーのストーリーでサイコーで、しばらく(だいぶか)前に村田雄介の画による商業用の連載も始まって、ずっと楽しみに更新をチェックしている。(なおなかなか更新されない)

一方、ガンカンジャは何しろ読むとこちらの世界をガックンガックンしてくれかねないので、なかなか更新のチェックに向かう指が重い。(なお毎週きっちり更新されているようです)
というか、めったにチェックしない。何なら楽しみなのかどうかもよくわからない。

今日も久々にチェックして(実に 1 か月半ぶりだった)、ド ドドドッというものがきて、まだ心臓がドキドキしている。

ここで、そういう体験をすること(させる作品)ってあんまり多くはないな(多くても困るのだけど)、ということに思い至って、ジャンルとしては今や演劇がその最たるものだな、と気づいた。

演劇がなかった頃の暫定一位は、アニメだったのだけれど。今や演劇。

演劇の何が好きなのか

なので、演劇の何が好きなのか考えてみる。

コミュニケートする人間を見る

演劇では、人が出てきて、多くの場合は別の人も出てきて、コミュニケーションをする。

人間のコミュニケーションは、面白い。
コミュニケーションの方法にも色々あって、言葉(文言)、その大きさ、速さ、間、高さ、音色エトセトラエトセトラの要素、表情、顔の向き、身ぶり、手ぶり、身体の向き、足の向き、筋肉の緊張、呼吸、等々挙げ始めるときりがない。

公共の場所(カフェとか)で漏れ聞こえる会話を聞くのが結構好きで、身体が発するものは一切受け取れないけれど、声からわかるものだけでもすごく面白い。
でもこれは趣味がよくない(一般には「盗み聞き」と言われる)ので、露骨にやるわけにはいかない。

他にも、コンビニ店員さんとのやり取りとか基本的に定型なので、ついついニュアンスというか細部に注目してしまって、毎度楽しんでいたりする。
しかしこれにも限度がある。

そこで演劇ですよ。
演劇では、人と人とがコミュニケーションするさまを見ていてよい。タダで。いやタダじゃないけど。

演劇では、むしろ人と人とのコミュニケーションを見ることが推奨されている
これが喜びでなくて何か。ぐへへ。

引きずり出された内臓を直視する

さらに演劇では、内臓まで見られる場合がある。

これは比喩で、外科的な意味での内臓を見られるわけでは(もちろん)ないわけだけど、何というか、ふだん人が(まっとうな社会性を持った人間なら)大事にだいじに内蔵して外に出さないようにしているものがでろでろっと出てくるところが見られるのが演劇でもある。

それが見られる理由は、一つには、そういうものが出てきやすい状況(ストーリー)が用意されるということがある。

多くの演劇では、何らかの事件が起こり、観客はそれに対する俳優の反応を見ることができる。
ふつう(現実の生活で)事件が起こった場合には、そもそもそんなに頻繁には起こらないけれど、仮に起こったとして、関係者の反応を悠長に観察するという態度は(まっとうな社会性を期待される人間には)許されない。

また、俳優は、内臓を出そうとする。

と言うと明らかに語弊があって、舞台の上で、内臓を見せびらかすような態度はよくないとされる。僕もそう思う。
ここは微妙なところで説明が難しいのだけど、俳優は内臓を出そうとせずに、でもやむをえず出てしまうみたいなところが演劇の理想形の一つで、結果として、観客は内臓を見ることができる。タダで。いやお金は払うのだけれど、それよりもずっと希少な社会生活をリスクにさらすことなく。

ぐへへ、とは言わない。結構つらいこともあるので。
ただ、世界がぐらぐらするのはこの辺の要因に負うところがが大きい。たぶん。

脚本・演出・俳優と想像力の合作

そして演劇が類似の作品形態、具体的には映画やドラマと違うところは、いくつもあるのだけれど、一つには「演劇には想像力が大きく介在する」ということがある。

演劇では、正真正銘の生きている人間が舞台の上に立って、演じる。
生きている人間には体積も質量もあるし、そこから音が出るし、なんというか人間そのものである。(アホみたいな言い方だけど、人間そのものなので仕方ない)

ところが、そのそのものでしかない人間(俳優)が立つのは、舞台であり、多少の小道具大道具はあるにせよ、(物理的には)現実とは程遠い状況であることが多い。
ここに、観客の想像力が仕事をする余地がある。

演劇では、そこに明らかにないにも関わらず、嵐の街並みが、南国の海が、天から注ぐ光が(そんなものは 2016 年の現実にはない!)登場する。
製作者の仕事と、観客の想像力によって。

映画やドラマの撮影では、ふつう現実の部屋なり、街並みなり、それからモノが使われる。「ロケ」という言葉もあるくらいである。
そこに人間の想像力が介在する余地は少ない。現実の部屋や、街並みやモノは、それ以上のものにはあまりならない。「四角い画面」という強烈な制約がある以上、本当のホンモノの現実、現実のオフィス、現実のライブハウス、現実の海辺にはかなわない場合が極めて多い。(と、少なくとも僕は感じる)

もっとも、演劇でもたまにそのまま映画を撮っても成り立つようなリアルなセットを建てこむ場合もあって、そういうのはそういうので大好きだったりするので、はじめの二つに比べるとこの要素は少しだけ弱いのかもしれない。(僕にとっては)

現実にそこにある人間の身体

もう一つ映画やドラマと違うところを挙げておく。

先ほど「正真正銘の生きている人間」という言葉を使ったけれど、映画やドラマの人間は「正真正銘の生きている人間」ではない。

なぜか。

一つには、映画やドラマは画面に収められている。においもしないし、奥行きもない。つばも飛ばさない。(こちらには)
これは演劇を好きな人以外にはかなり伝わりづらいとは思うのだけれど、そのにおいや奥行きやつばといったこと(その周辺のもろもろ)が、「コミュニケートする人間」や「引きずり出された内臓」の質にかなり強く影響している、と感じる。うまく説明できないのだけど。

それから、映画やドラマの人間は切り取られている。
そもそも映画やドラマに深い思い入れがないのであまりうかつなことは言いたくないのだけれど、映画やドラマでは、編集が行われている。はずだ。目指されているのは「監督が意図した画」であって、「コミュニケートする人間、その場そのもの」ではないはずだ。(多くの場合。もしそれがいいのなら、映画を撮らずに演劇をやればいい……はず)

一方、似ているようで違うこととして、「映画やドラマは(監督の)意図や作為、こう見せようというのが感じられて嫌い」みたいなことは、別に思わない。

演劇にだって当然演出の意図はあるし、脚本を書いた時点で人物そのもの、全人格をとらえるということは絶対にかなわず、何らかの形で切り取られている。
それでもやはり、人間や「場」そのものを感じられるのは圧倒的に演劇だと感じる。そういう点でおすすめの映画ある方いたら、ぜひ教えてください。

もちろん、ストーリーやテーマも

だいぶとっちらかってきたのでそろそろ終わりにする。
最後に、書き洩らしたことをできるだけとっちらかしておく。

演劇には、ストーリーやテーマがある。そのストーリーやテーマを感じることも(もちろん)大きな楽しみの一つで、他の作品形態とは異なる形でストーリーやテーマを感受することができる。

テーマやストーリーということでいうと、演劇には比較的社会的なテーマを扱った作品が多いように思う。演劇は時事問題に強い。

演劇の種類によっては、エンターテインメント性の高いものもある。コメディと呼ばれるジャンルの作品では多くの場面で笑うことができるし、ダンスや歌を楽しめる作品もある。(もちろん、それらが作品の重要なテーマそのものに通じていることも多い)

「有名な俳優を生で見られる」というのもあるか。もともとテレビを見ないのであまり感じることはないのだけれど。多部未華子を最前列で見たときちょっと嬉しかった。

うーん、意外と思いつかない。
結局、僕にとっての演劇の魅力は、これまでに大きな項目として挙げてきた 4 つに尽きるのかもしれない。

あ、観て泣いた場合、泣くことでカタルシスが得られる、という効果もあるのか。ただ、これは絞って絞ってようやく出てきた。
泣くことを目的にしたくない、泣いてしまってはもったいない、という意識がどうやらどこかにある。これは考え始めると面白そうなテーマだけれど、脱線になるので、また。

テレビではやれないことをやれる、というのもあった。放送禁止用語の連発とか。
たぶんこれもメリットなのでしょうね。なかなか出てこなかったから、個人的には別段メリットとも感じていないのかもだけど。

といったところです。
もっと映画やアニメ、漫画や小説といった形態との対比もしてみたいのだけれど、既に長すぎるので今回はこれまでとします。

ドローンは人殺しの道具か 『いま、ここにある武器』@シアター風姿花伝

芝居

シアター風姿花伝で『いま、ここにある武器』を観ました。

www.fuusikaden.com

  • 作 : Joe Penhall、訳 : 小川絵梨子、演出 : 千葉哲也、出演 : 千葉哲也那須佐代子、斉藤直樹、中嶋しゅう
  • 日時 : 2016/8/13(土)19:00~(プレビュー公演)@シアター風姿花伝

兵器産業に携わる優秀な技術者が、家族とのかかわりのなかでやがて自分の仕事に疑問を覚えるようになるが、関係者の思惑に翻弄されて……といった話です。

現代日本を直接描いた『雲ヲ掴ム』

今年 4 月に観た青年劇場の『雲ヲ掴ム』のことを覚えていて、さてこれも似たような兵器産業の話かと思っていましたが、観終わってみるとむしろ、「才能ある個人が、複雑な社会といかに折り合っていくか」という話だったと感じます。

技術者のネッド(千葉哲也)は、イギリスの国家プロジェクトとして、GPS の届かない屋内でも運用(自動航行)可能なドローンの開発に成功した。
しかし、兄のダン(中嶋しゅう)に、「それはつまり殺人の道具を作っているということだ」と激しく非難される。

「そうではない、むしろ抑止力になるし、大量破壊兵器とは違ってピンポイントでの殺害が可能になるため無辜の民を巻き込むことが減る」と反論するものの、やがてネッドの心には変化が生じる……。

この議論は、『雲ヲ掴ム』で展開された議論に似ています。

『雲ヲ掴ム』では、兵器を開発する重工の下請け町工場で、最終製品がどこで使われるのか正確には知らず(あるいは、気づかないふりをして)、生活のために操業を続けています。一方で、それをよく思わない(「人殺しの道具を作っている」と思っている)家族がいます。
そしてある日、外国でまさにその(日本で製造され輸出された)兵器が使用される場面をテレビニュースで目にして愕然とする、という場面があります。

『雲ヲ掴ム』は、このような事態が現代日本で現実に起こりかねない、ということをじかに訴えるものでした。

「新型ドローン開発」を通してずっと遠くまでを描く『いま、ここにある武器』

一方、『いま、ここにある武器』では、イギリスの話であることも関係してか、ストーリー自体はそれほどまで直接的なものには感じられません。
にもかかわらず、「これは私(たち)の話だ」と強く感じたのでした。

なぜか。

4 人いる登場人物の一人ひとりは、決して単純に特定の政治的立場を代表しているわけではありません。
それぞれが、それぞれの事情でそこにいます。

ネッドは技術者で、技術的な解決策を追い求めます。今までできなかったことができるようになることを愛します。
結果、新型のドローンを開発し、それが世界をよりよくすることも信じています。(少なくとも、ある程度は)

ダンは歯科医で、ボトックスによる金もうけを画策するなど清廉潔白な人物というわけではありませんが、自分と家族の生活を守り、よりよくしようという意思があります。また、兵器を憎む妻を持つこともあり、ネッドのしていることを支持できない部分がありますが、決して弟自身のことが嫌いなわけではありません。

(正確には把握できてませんが、おそらく)プロジェクトを取り仕切る(あるいはその補佐をする)ロス(那須佐代子)にも、やはり生活があります。(おそらく)優秀なビジネスマンとして、プロジェクトを成功裏に収めたいという熱意があります。

最後の登場人物であり、政府(国防省と言っていたはず)関係者のブルックス(斉藤直樹)も、いやらしい人物のように描かれてはいましたが、国のために最善の手段を取った結果があのような交渉術(静かな恫喝、あるいは心理操作術といってもよい)だったのだと思います。

誰もが、私利私欲のためだけでなく、ただ権力に服従するでもなく、自分が正しいと思うことをしています。最善につながると信じた道を行っています。
それぞれの人物の背後にまた人物があり、その背後にもまたあり、最終的には社会と呼ばれるものに通じています。

にもかかわらず、あるいはそれゆえに、ものごとはうまくいかない。
兵器産業に特有の問題を描くでなく、政治的立場の表明でもなく、人間社会そのものを描いているように感じます。

うまくいかない理由はただ仕組み、構造ということだけでもなく、またネッドという一人の人間固有の弱い部分でもあります。
人間は一人ひとり違う。

ダヴィンチが作った木彫りのライオンの美しいイメージを、希望としてネッドが語るラストシーンでは、「あなたはどうするのか」というメッセージを受け取ったようにも思いました。

「いま、ここに武器がある」

いま一度、「新型ドローンの開発は人殺しの道具を作っていることになるのか」という問題に戻ってみます。

ネッドは、「高機能ドローンは抑止力になり、また精度の高さゆえに死傷者の数を減らせる」と主張します。
それで本当に死傷者の数が減るのなら、ネッドは人を殺したのでなく、むしろ人を救ったことになるのではないか。

ダンは「そのドローンが悪用されたらどうか」という問題を提起します。
より直接的に考えるなら、仮に「ダンが」ドローンを開発し、そのドローンが悪用されて「私」(ネッド)が殺される事態に至ったらどうか。

まさに「いま、ここに」武器があるとしたら。
ネッドなら、「仕方ない」と答えそうにも思います。もちろん、殺されるその瞬間に心から「仕方ない」と思える可能性は低そうですが……。

ネッドは「包丁が人殺しに使えるからといって、包丁をなくすか」という反論も行います。
劇中ではいま一つ説得力を欠くようにも見えたのは、もともとの目的が違うから? 

ここで答えを出すことはできません。
少なくとも、『いま、ここにある武器』を見て、こういった問いを受け取りました。

個人的には、人を殺す可能性の高そうなものを作るのには、関わりたくない、と直感的に思います。
殺すにかかわらず、人を不幸にしそうなものには。

でも、この複雑な社会において、何がそうで、何がそうでないと言えるか。

ドローンのネジを作る仕事は。そのネジの原料を作る仕事は。卸す仕事は。工場の清掃は。会社の経理は。併設の食堂の調理師は。工場前に通じる鉄道の運転士は。近所のコンビニのバイトは。
コンビニのバイトがそうでないなら、ネジを作る仕事はなぜそうか。

どこで線を引けるのか、引くべきか、引けば自分が納得できるのか、引けば多くの人が納得するのか、やはり答えは簡単には出せません。
決まった答えはないようにも思います。

ここに「才能」が関わってくるのかもしれません。
ネッドが優秀な技術者でなければ、新型ドローンを開発することもなかった。

第二次世界大戦期に物理学者として活躍していたハイゼンベルクとボーアを描いた『コペンハーゲン』にも通じるものがあるか。
これも先日観て、複雑な印象を得たものでした。

「国家プロジェクトとしての新型ドローンの開発」に、人殺しの道具を作っている面がまったくない、とは言いがたいように思います。
一方で、たとえばそのネジを作る仕事に就いていたとしても、それが嫌なら、同程度の給与を得られる別の仕事もあるかもしれません。(といっても、『雲ヲ掴ム』のときのように、それが家業でやめるのが難しい場合もありますが)

才能、能力のある人間なればこそ、その力の使い方に深く悩むということが起こりやすくなります。

シアター風姿花伝

最後に、テーマというより芝居について。

シアター風姿花伝は新宿区中落合というなかなか絶妙(……)な場所にある劇場なのですが、こじんまりとしていい空間です。
新宿区といっても豊島区との境で、うちから歩いて(15 分くらい)行けるのも個人的にポイントが高い。

以前にも一度ここで、てがみ座の『対岸の永遠』を見ているのですが、あれも今回に劣らず濃密でよい舞台でした。
空間が濃密なんですよね。といっても下北沢の小劇場のようなちょっとすえた臭いも漂う感じではなく、清潔で濃密、という不思議な感じ。

今回は 4 人芝居、同時に出るのは 3 人までの徹底的な会話劇。
再来年に新国立劇場の芸術監督にも就任される小川絵梨子さんの、新訳もよい。ブルックスの絶妙な口調(語尾のニュアンス)の変化には震えました。

中島しゅうさんが好きです。
たぶん、すごく器用な(いわゆるカメレオン的な)俳優というわけではなさそうなのですが、立つだけで雰囲気がある、ついつい見てしまう。声がいい。『狂人なおもて往生をとぐ』『Eternal Chikamatsu』など、出ていると印象に残ります。
千葉哲也さんのエネルギー、緊張感、虚脱感といった、変化するからだとの対比もよかった。

折り込みチラシによると、次回の風姿花伝プロデュース公演は 2017 年末予定とのことです。
次回もぜひ見に行きたいと思っています。

公演はこれからです

『いま、ここにある武器』は明日までがプレビュー公演で、明後日 2016/8/15(月)~8/28(日)まで上演されています。

チケットは 5500 円~ 5900 円(明日のプレビューのみ 4900 円)と少しお高めですが、こういったテーマについて人と人がやりあう姿を自ら目撃してみたい方は、ぜひ。
あと俳優のファンの方も、ぜひ。満員でも 100 人くらいの空間で、近いです。

ticket.corich.jp

この国では犬が

blog 生活

ブログのデザインをもろもろ変更しました。

変更の理由

書いていなかった

今年に入ってから、あまりブログを書いていません。

以前は毎月、読書記録や観劇記録、さらに古の時代には短歌の記録などもつけていて、そこそこの頻度で書いていたのですが、あれ、なんか結構時間使ってるな、他にもやりたいことあるのに、などと感じて、なんとなく書かなくなっていました。

ところが、書かないと、書きたくなってくるものですね。
書きたいな、書きたいような、書くのだろうか、……といったもやもやした気持ちがここ 1 ~ 2 か月ほど漂っていたのですが、書けばいいんだ、とふと気づきました。

最近、萩尾望都先生の瑞々しいエッセイ内田樹さんの熱い講義録を読んで、「書くこと」や「書かれたもの」のことを改めて特別に感じるようになっている、という部分もあるのかもしれません。

ちゃんと書こう

ずっと文章を書いていると、だんだん慣れてきて、それなりに書けるようになってきます。

以前の読書記録や観劇記録はあくまで記録をメインに、おまけで文章を書くということをしていたのですが、最近のものを読み返してみると、案外一つひとつの感想でも十分記事になるのではないか、と感じます。
また、読む側にしてみても、いろいろと一緒くたの記録よりも、「これは」と思った本や舞台の感想(だけ)をピンポイントで読みたいし、その方が目当ての記事を見つけやすいのでは、とも思います。

等々思いを巡らせていると、雑多な記録よりも、一つひとつの本や舞台の感想を、独立した記事として書くようにしてみよう、と考えるようになりました。

そして、せっかく書くのなら、読者が興味のあるものを読みやすいように、わかりやすいカテゴリごとに見られるようにしたい、と思ったのが、デザイン(テーマ)変更のきっかけでした。

主な変更点

主な変更点は 2 つです。

テーマを変更した

以前からお読みいただいている方には見ての通り、気持ちゴッホっぽい青い背景のテーマから、フラットデザイン的なテーマに変更しました。
前述のように、必須要件はヘッダにカテゴリを表示する機能があることで、その中から一番すっきりしてバランスのよい(と感じる)ものを選びました。

「CONTENTS」というテーマです。

色を「墨色」を基調とした配色にするなど、少しだけカスタマイズしています。

www.dreamark.tokyo

すべての記事を 4 つのカテゴリに分配した

カテゴリごとに読めるように、すべての記事が以下の主要 4 カテゴリのうちいずれかには必ず入るようにしました。

  • 芝居
  • ソフトウェア
  • 生活

最初の 3 つに該当しないものはすべて「生活」です。
「短歌期」に書いた短歌の記事が 18 もあったのですが、すべて生活です。

一部、複数の主要カテゴリにまたがるようなものもあります。(わかりやすい例では、「芝居の本」や「ソフトウェアの本」など)
といっても本がカテゴリとして強すぎるので、芝居やソフトウェア関連のものは「本」カテゴリには入れない場合も今後出てくるかもしれません。

まとめ

  • 書くためにデザイン変更しました
  • 書いていきます

追記

「この国では犬が」の「犬」にあたると目される写真のワンちゃんは 7 月くらいに永眠しました。

よく生きたね。