この国では犬が

本と芝居とソフトウェア

日記

なんとなくなにか書きたくなったので書く。

何のために生きてるんだろう、みたいなこと。

いや、違う。
別に生きる意味なんてものはないというか、なくていいというか、そういうことはわかっている。と思う。

では、生きるのが嫌になったとかそういうことかというと、そんなこともまったくない。

であれば、何か。

最近アプリで漫画を読む。
Twitterで気になったアプリを入れては読んでいるうちに、なんだかんだ10くらいのアプリが入っていて、うち5つくらいは毎日見ている。

漫画を読んでいると、色々な人生があるな、と思う。いや、フィクションだけど。
そして、漫画にはたいてい人と人とのことが書かれていて、人と人とのあいだで、いいことがあったり、悪いことがあったり。
人が何かいいことをしたりなどする。

なんか、たぶんそういう風にありたいんだな。
なんとなくいるのは嫌で。いや、なんとなくいるのがいいという人はもちろんそれはそれでよくて、というか人のことをいいとか悪いとか判断する権利自体ないんだけど。

そうじゃなく、自分は、なんとなくあるのは嫌だと思っている。
たぶん。

つまり、何かしていたい。何かを感じていたい。何かを得ていたい。
そういう感じ。

まあ、たいていの人はそうなのかな。いや、そうでもないかも。
たとえば、何もせずだらだらしてたい、みたいな人もふつうにいる。だから、まあ、そのへん色々と人によって程度の差があるんだろう。

で、自分の話。何かしていたい、感じていたい、得ていたい。

だから、こういう風に何かを書くんだと思う。

昔から、何かを得たり、感じたり。
そしてそのために、ということが多かったけど、何かをしてきた。

世界が美しい場所で、美しいものが多いといいと思っている。
ああ、最近世界が美しい場所じゃなくなってきた、何かそういう風に感じているのかもしれない。

世界とは何か。
私が認識しているもの。私にとって世界だと感じられるもの。私が知っている限りにおける、全宇宙。

大人になったと思う。生物学的というか、社会的というか。その両方かな。
「いい年」だし、肉体的・機能的にも大人といって何の疑いもない状態だと思う。(そこそこ前から)

「社会人経験」をそれなりの年数重ねてきて、なんていうか人並みの社会性とか、生産性とか、そういうものも持っているような気がする。
それは単に、平均的なところと比べて外れ値ではない、程度の意味だけれど。

そろそろ、世界を美しい場所にする頃合いなのかもしれない。

別に、これまでもする気がなかったわけじゃない。
ただ、自分の役割は限られているというか、あくまで自分がしたい範囲でする、そういう風に考えていた。
たとえば音楽を作るとか、短歌を作るとか、プログラムを書くとか(これは仕事でもあるけど)そういうことを、あくまで自分がしたい範囲でしてきた。

世界を相手にしよう、そう意気込んでみたとき、ほとんどただちに自分の無力さを感じる。
結局のところ、私が何かをしたとき、世界がどう変わるか。

たぶん、必要なのはそこをつなぐ何かだ。
一歩も動かずに手の届く範囲で満足するのでもなく、かといって、一人で地球をまるごと動かそうと試みて絶望するのでもなく。

世界の話をするなら避けて通れない(別に避けて通る必要もない)のが、今所属している会社の話だ。
そこでは、「経済情報で、誰もがビジネスを楽しめる世界を作る」ことを目指している。

うん。半分くらいだ。

誰もが楽しめる世界を作る。
これはいい。本当にいい。誰かが楽しめる世界じゃだめだ。楽しめない世界もだめだ。誰もが楽しめる世界じゃなきゃ。

これは本当に、心からそう思う。

では、経済情報で、ビジネスを。これはどうだろうか。
実は、と前置きする必要もないのかもしれないけれど、どちらでもいいと思っている。

つまり、誰もが楽しめる世界であれば、経済情報であっても、ビジネスであっても、なくても、何でもいいと思っている。本心では。
「気象情報で、誰もが短歌を楽しめる世界を作る」。今思いつきで考えたただの(ほとんどナンセンスな)語呂合わせだけれど、直感的には同じくらいはいいと思う。

ビジネス的な実現性とか、具体性とか、そういうのをいったんほっぽっての話ですよ。
念のため。

こういう風に、自分に正直になったほうがいいと思っている。
結局のところ、私に責任を取れるのは私だけだ。だから、私に(そして、私だけに)は、私に正直になる責任がある。

世界を美しいものにするための力の不足を感じているのかもしれない。
いや、本当は不足なんてものはない。勝手にそう設定するからそうなるだけだ。

では、逆に今に生きてみてはどうだろうか。禅というのか。マインドフルネスというのか。
別に、「世界を美しいものにする」という「目的」から逆算する必要はないはずだ。

そもそも、普段からそうしている。
そうしている折に、ふと思考がさまよったから、今この文章を書いている。

一つ思いついたキーワードは、アライメントだ。それから、統合。Authenticityであったり、Integrityだ。
いわゆる「きれいごと」だ。

何かを妥協したくない。あれもほしいし、これもほしい。
別に自分が特別欲張りだとも思っていないけれど。いや、欲張りなのかもしれない。

自分に嘘をつきたくないのだ。何かをごまかしたくない。
これは性分だと思う。自分を限りなく尊重したいし、その裏返しとして他者を限りなく尊重したい。*1

嘘をつくことはある。きれいごと100%でこの世に存在し続けることはできない。*2
ただ、その場合も、嘘をついていることに自覚的でいたいのだと思う、たぶん。

子供の頃、初詣で神社にお参りするとき、「世界が平和になりますように」と願っていた。
今思い返しても、そのときの気持ちに嘘はなかった。

私にとって、世界が平和になるとはどういうことか。
たぶん、今もそれを探しているんだな。

何かをしていたい。
であれば、それを探していればいいのだろう。

世界が美しいものにしたいという思いと、個人の生活を統合できる道を、日々、少しずつ選び続ければいいのだろう。
この文書を書いたことは、その道に沿うものだったと思っている。

*1:自分が尊重される限りにおいて。

*2:たぶん。