ゴッホの絵が好きだ。
ゴッホの良さ
ゴッホの良さは、写実性だと思っている。
つまり、ゴッホの絵を見ると、「あのときの、あの光景」がありありと現前する、それが一番の良さだと思っている。
これは美術史的見地からの意見ではまったくなくて(僕は、美術鑑賞が好きなのに対して美術についての知識はものすごく少ないと思う)、勝手にそう思っているだけなのだけれど、そうだよね、と思ってくれる人がいるといいな、と思うし、たぶんいると思う。
また、この間
「ゴッホみたいなわけのわからない絵」
といった表現をふと耳にして、「いやいやそんな馬鹿な、むしろいかにもよくわかる絵じゃないか」と思ったので、
「ゴッホの良さは写実性だと思っている」
と述べることにした。
二本の糸杉
実家が小さな半島の町の山手にあるので、実家の部屋の窓から外を見るとだいたいこういう感じである。
こんなに立派な糸杉が家の目の前にあるわけではないけれど、いつか見た糸杉、を実家の窓から見た風景に重ね合わせると完璧だ。
星月夜
やはり実家から、月の明るい夜に街を見降ろすと、だいたいこういう感じである。
ほんとにこういう感じなんですよ、田舎の町の山から見降ろした夜って。
ゴッホがうちの近所に住んでたんじゃないかと一瞬思いかけたけど、冷静に考えなくてもそんなわけがない。
向こうには海があるのだけれど、この絵ではどうなっているのか、ちょっとわからない。
それから、ちょうど杉に隠れているあたりには、城がある。もちろん、武者返しのついたニッポンの城である。
夜のカフェテラス
この風景にぴったり重なる場所を僕はまだ知らない。
でも、あらゆる夜の街角を重ねたようなすばらしい絵だと思う。
僕が知っている夜の街はだいたい京都なのだけれど、この絵は京都のあらゆる夜を彷彿とさせる。
そしてよくよく細部を見ると、あれ、違う。と思う。(というか、今まで違うということに気づいていなくて、今初めて、よく見たら違う、と思った……)
あえて言うなら、石畳なところとか、祇園のあたりに近いかなあ。
東京では、中目黒もこういう感じだった気がする。(石畳ではなくて、張り出した屋根の雰囲気とかが)
そう、今までに見た絵でもそうだったけれど、写実性というのは別に「特定の写真と全画素のRGB値が一致すること」ではない。
そもそも現実は、普通、写真には写らない。
ただ、そこをかなりの程度写してしまう写真家という人たちもいて、たいへん尊敬してもいる。
余談だが、この絵の複製がコメダ珈琲池袋店の一人用の席にかかっていて、僕はそれをゴッホ席と呼んでいる。
日没の種まく人
ふたたび実家に戻って、というか実家から熊本県にフェリーで渡ったところに、長洲という町がある。
長洲が、というより熊本のあの辺一帯そうなのだけど、平地が広くて、畑が広がっている。
あのへんの風景はだいたいこういう感じである。
嘘だと思う方があれば、秋から冬なら 15 時から 16 時あたり、春から夏なら 16 時から 17 時あたりだろうか、そういった時間に、博多駅から JR 鹿児島本線の普通ないし快速列車に乗るといい。
そして、西を見るといい。
自画像
父がおおむねこういう顔をしている。
まとめ
というわけで、ゴッホの良さは、「あのときの、あの光景」(それは「現実」に過ごした時間ではなかったかもしれないけれど)を現前させる写実性だと思う。
ただ、それを「よくわからない絵」と評する人と、僕(のような人)との間では、「(現)実」が異なるため、「実」を「写」しているかどうかにも差がでて、「よくわからない」人と僕との評価が分かれるのだと思う。
この間、「現実脱出論」という本を読んだ。
- 作者: 坂口恭平
- 出版社/メーカー: 講談社
- 発売日: 2014/09/18
- メディア: 新書
- この商品を含むブログ (4件) を見る
誰しも方向は違えど、また多かれ少なかれ、ふだんからしばしば(物理的な現象として、一つしかないものとして語られるところの)「現実」を脱出しているものだと思うが、その方向性や程度の違いによって、同じ絵画に対する評価の違いが生まれるのだろうなと思っている。