2016 年の目標を立てます。
2016 年の目標
2016 年になってから、実家でごろごろしたり、ごろごろしたり、ごろごろごろごろごろごろしたり、さすがにごろごろするのに飽きてちょっと散歩したり、フェリーと電車と新幹線を乗り継いで 10 時間かけて東京に戻ってきながら本を 1 日に 5 冊読んだりするなかで*1、ぼんやりぼんやりと今年の目標について考えてきました。
ぼんやりぼんやりした中から浮かび上がってきた、次の 2 つのことを今年の目標にしようと思います。
- 全力で走る
- 手入れして生きる
全力で走る
比喩です。
全力で走るというのは、ものごとをやって、やって、やり抜くという意味です。
ものごとというのは、今のところ、主にしばいとソフトウェア、です。(うたはお休み中)
もちろん、生きていると、しばいとソフトウェア以外のことも色々とあります。
それらについても、手を抜かない。
ここ 3 年ほど、色々と助けてくれた人たち、力になってくれた人たちや、まあ自分でも自分なりに行った努力などのおかげで、心身が安定して、全力で走っても大丈夫になったと感じます。
しばいとソフトウェアのことを、充実してきた心身にまかせて、ビシバシやりたいと思っています。やりたいことがひとつの 2 倍でふたつあるから、余計にリソースを突っ込まなくては、という思いもあります。
それから、この一年でだいぶものごとがよく見えるようになってきて、もちろん昔に比べたらということですが、あまり細かく目標を決めたり、管理したりしなくても、うまく走れるんじゃないか、これもたとえですが、うまく行きたいところへ、もし目標を決めるとしたらそうと決めていたようなところ、そのちょっと先くらいのところへ、自然と行けるんじゃないか、という予感があります。*2
一度これでやってみようと思います。
走って、走って、あわよくばたまに飛ぶことができれば。
手入れして生きる
これはあながち比喩というわけでもないです。
全力で走れるようになった(と思う)とはいえ、そんなことをすると、走る速さにおそらく比例して、色々なクズやらほころびやらが出ます。これは比喩です。
たとえば部屋は荒れるでしょうし、頭の中も荒れるでしょうし、下手をすると人間関係も荒れるかもしれません。
だから、こまめに手入れをして生きようと思います。
具体的には部屋の掃除だってするし、ものの手入れもするし、古くなったものは入れ替えるし。心身の状態にもこまめに気を配る。
積みすぎている本やら CD も何とかする、まとめてじゃなくて、少しずつ。人づきあいも、ここしばらくちょっとルーズにしすぎた感もあるので、もう少しだけ気を使ってみる。
こまめに手を入れることは、走ることに対しては、少なくとも走ることが持ちうるエネルギーの総量に対しては多少のブレーキになる可能性もありますが、この先も続けていくために必要なことだと考えます。
本当は少し荒らしてみたい気もしているのですが。まあ、本当に本当に全力で走れば、自ずと荒れるでしょう。荒れすぎると、壊れます。それはまずい。
手入れ、という言葉は養老孟司さんの何かの本からもらいました。
里山はほったらかしの自然ではなくて、人間が手入れすることでできあがる、みたいな話だったと思います。
この一年で、全力で走ることと、手入れして生きることのバランスを高いところでうまく取れるようになって、この一年の先も生きていけたらいいなと思っています。
今年も生きます
というわけで、2016 年の目標は、
- 全力で走る
- 手入れして生きる
の 2 つです。
すごくシンプルなのでちょっと不安もありますが、まあこの先もしばらく続く(蓋然性がそれなりに高い)人生のうちの 1 年間、これでやってみるのも悪くないでしょう。
続くといいなあ。
本編が短くすんだので久々に言っておくと*3、生きることは大前提、当たり前ということではなくて、まず第一に行うべきことです。
2016 年も生きます。
補遺
補遺 1 : 忘れていたもう一つの目標(のかけら)
先にあげた二大目標に並べるまでではないのですが、少し社会に目を向けたい、ということも思っています。
社会に目を向けるというのはまた漠然とした言い回しですが、年末にふりかえりをするときのフックになればいいと思って、書き残しておきます。
自分のことはすっかり充足してきたので社会を見た方がいいな、という感じがここしばらくしているのですが、まだ入口も出口も見つかっていないのが現状です。
まあ、社会とか大きなことを言う前に、もう一度身のまわりの人たち、近しい人たちに目を向けることから……なのかな。
補遺 2 : 最後に一つだけいらないことを
今年の目標、特に「手入れして生きる」の方は我ながら実に常識的でまっとうな目標だなと思っていて、それがなんだかつまらないな、ということを少し思います。
「本当は少し荒らしてみたい」と言ったのも、たぶんそういうことです。
それなりに足掻いてようやく獲得した(つもりの)常識、まっとうさを「つまらない」というのはまったく……という感じもしますけど。
一年後にどう感じているか、どう考えや行動が変わっているか見てみて、また考えたり、あるいは考えなかったりしたらいいかなとも思います。