この国では犬が

本と芝居とソフトウェア

2016 年のふりかえり

2016 年のふりかえりをします。

目標について

まずは、年初に立てた目標について。

enk.hatenablog.com

以下の 2 つの目標を立てました。

  • 全力で走る
  • 手入れして暮らす

かなり大づかみな目標でしたが、結果やいかに。

全力で走る

1 つめの目標は、要するに、こういうことでした。

しばいとソフトウェアのことを、充実してきた心身にまかせて、ビシバシやりたいと思っています。やりたいことがひとつの 2 倍でふたつあるから、余計にリソースを突っ込まなくては、という思いもあります。

芝居とソフトウェア、ということで、それぞれふりかえってみます。

芝居

2016 年は、92 本の舞台を観ました。

2015 年が 63 本だったので、前年対比でおよそ 1.5 倍。

観る本数を増やしすぎた

多いというのはよくやったということか、というと、そうとも言い切れない、という苦い感覚があります。

僕はおおむね以下のような手順で芝居を見に行きます。

  1. 芝居を見る
  2. 折り込みビラにすべて目を通す
  3. ビジュアル、タイトル、作・演出、出演者、場所、チケット代等の観点から、気になったものをピックアップする
  4. 気になったものを並べて、行くものと行かないものに仕分けしてから行くものを予約する

こうやって、観る対象がじわじわと広がっていきます。

他にも友人の誘い・すすめや演劇ライターの記事、ツイッターでの評判をきっかけに観に行くこともありますが、全体の 1 割程度にとどまります。

さて。

この「全ビラチェック」戦略は世界を広げていくためのやり方だったのですが、結果として本数が増えすぎて、一本一本をあまり大切にできなかった気がしています。

チケットを取ったのに、予定を入れ忘れていて見逃してしまったものも、2 本ほどありました。
一度ならず二度までも。大失態。

たくさん観て得たものは色々あった

とはいえ、これだけ観たのだから、もちろん得るものもたくさんありました。

たとえば、友人のすすめで、歌舞伎を何本か観ました。

どれも本当にすばらしかった。

ただ、歌舞伎は、一度切れてしまうと前述の観劇ストラテジーの網から漏れてしまうこともあって、その後観に行くことが結局ありませんでした。

これはぜひ、特別に枠を作って観に行くようにしていきたい。

また、これだけ本数を観ると、さすがに好みの役者や演技・演出のスタイルというものがじわじわとわかってきました。

偉そうにも、役者の良し悪しについて少しはものを言えるようにもなってきました。(あまり言わないようにはしていますが)

俳優業もエンジンがかかってきた

アマチュアの俳優業も引き続きやっています。

今年は、所属する劇団で 2 回め(小さいものも入れると 3 回め)の出演をして、去年よりずっとよくなったと多くの人に言ってもらえました。

いくつか本を読んだことと、劇団での稽古(基礎的なトレーニングはほとんどなく、台本のリハーサルが中心)以外にはほとんど何もしていなかったので、これも舞台の本数を観たというところが大きかったのではないかな、と思います。

スタニスラフスキーの『俳優の仕事』(ロシア語版から新たに訳した未來社版)を第三部まで読み通しました。
これは本当によかった。

いま日本で流通している演技指導法の多くはスタニスラフスキー・システムの影響を受けているのだと思います。(僕がこの 1 年半で見聞きした限りでは)

しかし、スタニスラフスキー・システムが本来意図していたところが伝わらず、間違って(一部が不当に誇張されたり、システムの習得には長い時間がかかることが無視されたりして)伝わってしまう傾向があるように感じられます。

その認識を正せたのは、大きな収穫でした。

また、これがきっかけで、スタニスラフスキー・システム(とメソッド演技)を理解して指導している人のクラスに通い始めました。

余談ですが、クラスの中ではこのクラスの参加者の芝居(エチュードや、一部のシーン)を観る機会があって、これがびっくりするほど面白いので、これからがとても楽しみです。

ソフトウェア

続いて、ソフトウェア業について。

読んだ本

この 1 年間何をやっていたのかは、定量データ(→読んだ本)を見ればよくわかります。

技術書 : 4 冊
チーム・組織・方法論についての本 : 19 冊
その他(技術読み物等) : 4 冊
  • 角川インターネット講座 (10) 第三の産業革命経済と労働の変化
  • IoT とは何か
  • 角川インターネット講座 (1) インターネットの基礎
  • 角川インターネット講座 (2) ネットを支えるオープンソース

スクラムから組織改革へ

いやはや。

並べてみるまで、ここまで偏っているとはさすがに思いませんでした。
ついにここまできたか。

今年に入ったあたりから、いま所属している組織では、自分自身の(個人の)ソフトウェア生産性というか生産技術を高めても、直近では大きな進歩につながらなそうだな~という感覚があって、自然とチーム、組織の問題に興味がフォーカスしていきました。

幸いにも、というか、そういう時期・頃合いだったのでしょうが、組織内でもやり方を変えていこう、アジャイルとかそういうやつまじめに検討してみようという機運が高まってきて、主力製品である DataSpider Servista の新バージョン開発では『アジャイルサムライ』および『アジャイルな見積りと計画づくり』を手引きにしたチームで開発していくことになりました。

そこへもう一つ転機があって、8 月に、チームリーダー*1に誘われて、3 日間の認定スクラムマスター研修に参加します。

これがめちゃくちゃよかった。

そのあとは、スクラムフレームワークにのっとって開発をしています。
しばらく続けて、スクラムチーム(プロダクトオーナー、スクラムマスター、そして開発チーム)全体としてのアウトプットを最大化していこう、というところまではきたと思います。

この流れは、最終的には、開発部門(開発部および品質管理部と呼ばれています)の生産性の問題でさえなくなって、営業・マーケティング・IT・人事総務等々まで含んだ組織全体のあり方の問題になっていくのだろうな、とも思います。

去年までは、あろうことか個人のスループット(アウトプットの量と質)にフォーカスしていたのだから、まったく恐ろしい。

予想の枠を越えるものではありましたが、大きな進歩をした、という実感です。

ただ、さすがに個人的な技術力の研鑽が少なすぎた、というのは確実に反省すべき点で、やや比重を変えていく必要があるとも思います。

目標「全力で走る」についてのまとめ

「全力で走る」という大づかみな目標は、以下のような根拠で立てたのでした。

それから、この一年でだいぶものごとがよく見えるようになってきて、もちろん昔に比べたらということですが、あまり細かく目標を決めたり、管理したりしなくても、うまく走れるんじゃないか、これもたとえですが、うまく行きたいところへ、もし目標を決めるとしたらそうと決めていたようなところ、そのちょっと先くらいのところへ、自然と行けるんじゃないか、という予感があります。

どうでしょうか……。

走れたかな、という感覚はあります。
全力かというと微妙なところで、8 ~ 9 割くらい。よく走った、と言っていいとは思います。

ただ、

もし目標を決めるとしたらそうと決めていたようなところ、そのちょっと先くらいのところへ、自然と行けるんじゃないか

これはどうかな、と言わざるをえない。

1 年前から見て、今自分がいる場所にびっくりすることはありません。
まずまず、着実に進んだね、とは思いますが。

最近読んだ本の多くに書いてあることで、またスクラムフレームワークの根拠の一つでもあると思うのですが、人は計画していないことをやるのが苦手です。

何かやるべきことがあるとして、「(今)やるべきか、やらざるべきか」と考えることで、いちいち意思の力を消耗します。
結果として、成し遂げることの量は少なくなります。

だから、計画をしないというのは得策ではないな、と今は率直に思います。
もっとも、これも試してみて体感したことなので、この一年が失敗だった、とは思いません。

手入れして暮らす

さて、2 つめの目標について。

これは、1 つめの目標「全力で走る」を本当に全力でやるとたぶん生活が荒れるだろうから、壊れないようにしよう、という意図を持って入れたものでした。

壊れなかった

結果としては、生活は壊れていません。

とにかく本が増加傾向なので部屋は少し狭くなりましたが、足の踏み場はありますし、服やその他の消耗品も(使えるお金が多くはないなか)うまく交換・維持できていると思います。
友人関係も壊れていない、と思います。

ただ、特別に改善もしていません。

全体として「やや荒れた」という感覚で、そこそこ走ったことも考え合わせると、可もなく不可もなくだなあ、という評価です。

もっと丁寧にしてもいいのかも

なんとなく、すっきりしません。

もともと維持が目的だったので、いいと言えばいいのですが、もっとちゃんとしていた方が、もっと走りやすくなるのではないか、という気もするのです。

できる人の机は汚いとか、芸術家の部屋が散らかっていたみたいな言説もありますが、そういうこともある、というだけなのではないか。

余計なものはない方が、思考はすっきりします。
散らかった思考の面白さというものは、経験があるのでわかるのですが、整理された思考から生まれるものの価値を認めてみるのもいいのではないか。

思い切って、生活の方針を「丁寧に暮らす」にしてしまってもいいのではないかな、という気もしています。

補遺について

2016 年のはじめには、上にあげた 2 つの目標の他に、あと 2 つのことを考えていました。

社会に目が向いていく

社会に目を向ける、ということについて。

うーん、できたのか、どうか、よくわかりません。
そもそも、社会に目を向けるということがどういうことなのかも、まだよくわかりません。

ただ、徐々に社会に目が向いていくのだろう、ということは思います。

たぶん、人は自分だけのために生きられるようにはできていないのだと思います。(中には、そういう人もいるかもしれませんが)

俳優業も、ソフトウェア業も。
自分が楽しむため、生きるためといった目的から、徐々に社会的なものが目標になっていくだろうな、と思います。

無理にそちらを向こうとしなくても。

少し荒らしてみかった

こう思っていました。

今年の目標、特に「手入れして生きる」の方は我ながら実に常識的でまっとうな目標だなと思っていて、それがなんだかつまらないな、ということを少し思います。 「本当は少し荒らしてみたい」と言ったのも、たぶんそういうことです。

今は、思いません。

荒れるときは荒れる。

荒れていない、というのはありがたいことです。
それに、目標だった「手入れして暮らす」のふりかえりでも書いたように、荒れていないからこそ達成できることというのもあるような気がします。

荒れるときには、荒れるでしょう。

だから、わざわざ荒らすことはないな、と今は素直に思います。

目標についてのまとめ

全体として、月並みですが、充実した一年だったな、と思います。

(今思えば)具体的な目標を立てなかったにもかかわらず、よくまっすぐ歩けたな、という感覚です。
運がよかったのかもしれません。

その点、「全力で走る」と言いながら、どこか充電したような感覚もあります。
うーん、まだまだ全力じゃなかったのかな。

一度落ち着いて、これからのことを考えてみたいなと思います。

それ以外のことについて

目標の枠の外のことについて、いくらか書いておきます。

本について。
2016 年は、120 冊読みました。

2015 年が 192 冊だったので、およそ 3 分の 2 ですね。
もともと、数は減らそうと思っていたので、妥当な数だと思います。

とはいえ、これでもまだ少し多いかな、という感覚です。
ついつい、本を読んでしまいます。

本を読むこと自体は悪いことではなく、この 5 年は半分くらいは本の力で生きてきたと言っても過言ではないのですが、本を読むには時間も、お金もかかるというのも事実です。

特に、時間。
もう少し、本以外に時間を使うようにしていきたい、という感覚があります。

芝居

芝居については、目標のところでだいたい書きました。

やはり、スタニスラフスキー・システム/メソッド演技のクラスでがんばってみる、という当面の方向性が決まったのが、何よりも大きな収穫だったかな、と思います。

一方で、地点のようにスタニスラフスキー・システムを(正当に)批判する人たち(そして、そのアウトプットはすばらしい)もいるので、視野が狭くならないようにしよう、ということも思います。

記事一覧

2016 年に書いた芝居関連の記事は、6 本でした。

ソフトウェア

ソフトウェアについても、目標のところで書きました。

技術が好きだと思っていたのですが、どうもそればかりではないようだ、ということがこの 2 年ほどではっきりしてきました。
いや、もちろん技術は好きなのですけど。

これからどうしようかしら。

今年は、JavaOne に会社から 2 人で行かせてもらいました。

参加者の中には JavaOne に往時ほどの盛り上がりが見られない、という感想もあり、たしかにそうなのかも、と感じるところもありますが、それでも、Java プログラマなら行って得られるものはとても大きいカンファレンスだと思います。

Java についての最新の一次情報が得られて、世界の Java コミュニティに触れられる機会。

来年もぜひ、また違ったメンバーも、JavaOne に参加できるといいと思います。

記事一覧

2016 年に書いたソフトウェア関連の記事は、個人ブログ 5 本、会社ブログ 6 本、Qiita 3 本でした。

個人

会社

Qiita

全体のまとめ

全体として、いよいよ熟してきたな、という感じがします。

そういう年代なのでしょう。
第一成熟期、というか。

一方で、俳優業だとか、比較的新しく始めたばかりのこともあります。
それも含めて、これからどうするかによって、色々なことが大きく変わっていくでしょう。

どこへ行こうかな。

今年も、たくさんの人のお世話になりました。
みなさんが、心安らかに新しい年を迎えられますように。

*1:現在のスクラムマスター。当時は『アジャイルサムライ』の用語にのっとって「アジャイルなプロジェクトマネージャ」みたいな呼び名だったような気がします

ひとが生きるか生きないか

次の日曜に舞台に出るのだけれど、これが一回きりの公演で、震えている。

僕が所属する劇団は 20 年続いていて、年一回の本公演は基本的に(たぶん、すべて?)書き下ろしの脚本で、再演は一度もない。

今回も、書き下ろし。

よって、今年の台本で僕が演じる人物は、もし僕がその人物を演じなければ、過去にも未来にも、おそらく永遠に存在しない。

ということに今更気づいて、震えている。(公正を期すために言っておくと、部屋が寒いせいもあるかもしれない)

僕は去年の本公演が初舞台で今回が二回目で、去年だって条件は同じだったのだけど、震えることなかったのは、鈍かったのですね。

「その人物を生きなければ」と言いかけたけど、生きるなんてことができると思うのはさすがに思い上がりであって、せめて、精一杯演じようと思います。

その中で、一瞬でも生きられたらいいなとは思う。

でも、決して力んではいけない。意気込んでもいけない。(たぶん)
俳優業は難しい。

公演情報

カラマーゾフのまちわびて」

  • 日時 : 2016 年 11 月 27 日(日) 13:30 開場 14:00 開演
  • 場所 : 府中の森芸術劇場 ふるさとホール(京王線東府中駅から徒歩 10 分ほど)
  • 入場無料

500 人くらい入るホールで入場無料、チケット・整理券等も不要なので、東京近郊の方いらっしゃいましたら、ぜひお気軽にお越しください。
11 月末の東府中駅から府中の森芸術劇場への道は風が冷たくて……いい感じです。

開発者とスクラムマスターを兼任するとつらいし成果も出ない(と思われる)

スクラムチームで開発者をやっていると、開発者としての振る舞いとスクラムマスターとしての振る舞いは違うな、ということを日々痛感します。

開発者をやっていると「スクラムマスターらしい振る舞い」ができない

8 月に認定スクラムマスター研修に参加して、スクラムマスターとして然るべき振る舞いをある程度は理解していると思います。
スクラムマスターの振る舞いはスクラムチームを最大限効果的にする振る舞いなので、開発者とはいえ、できるだけそう努めようとしてみるのですが、開発者として働いていると、それができません。

というより、それをやっていると、開発者としての責任が果たせなくなるので、したくてもできない、というのがより正確かもしれません。

これでは、開発者とスクラムマスターを兼任するとつらいし成果も出ないだろうな、と思います。
幸い、僕のチームでは兼任ではないのですが。

開発者とスクラムマスターの違い

開発者として僕がふだん心がけている振る舞いと、以前参加したスクラムマスター研修で学んだ*1スクラムマスターとしての振る舞いは、日々のそれぞれの場面で、以下のように違います。

場面 開発者としての振る舞い スクラムマスターとしての振る舞い
Daily Scrum 自分の状況や知見を話して共有し、また他のチームメンバーの発話から状況や知見を得る 言語・非言語を問わずチームメンバーのコミュニケーションから状況を把握し、また効果的なデイリースクラムの運用につとめる
Product Backlog Refinement 開発者として PBI への意見や提案・要望を出し、意見交換をしながら理解を深め、自身の考えをもとに見積りを行う プロダクトオーナーと開発者との効果的な意見交換を促進し、メンバーの様子を観察して、限られた時間内で、PBI に対しての学習効果や見積りの正確さのバランスを取りながら、最大限の効果を得ることにつとめる
Sprint Planning コードベースや設計・テスト手法等についての知識を最大限提供しながら、他のチームメンバーの知識も取り入れ、全体として正確で適切に構成された計画の作成につとめる 計画作業の全体を俯瞰し、チームの学習効果や計画の正確さのバランスを取る
Sprint Review 実際にプロダクトを動かしながら説明し、またプロダクトの改善提案を行う 限られた時間内で、プロダクトについて最大の学習効果とすぐれた提案が得られるようつとめる
Sprint Retrospective チームとプロダクトをよりよくするために、何がうまくいっているのか、何が問題なのかといったことを忌憚なく発言し、また他のチームメンバーの発言に耳を傾け、改善のためのアクションに合意する チームが衝突を恐れず意見を交換し、チーム全体で責任を持って改善のためのアクションに合意できるよう導く
日々の開発 開発・テスト・レビューといったタスクに集中して実行する タスクボードの状況や人の動き、会話を観察し、チーム全体として効果的に開発を進められているか、問題やボトルネックがないか探す
全体 開発者としての知識・能力を最大限発揮し、スクラムチーム全体のために有用な意見や考えを主張し、また他のチームメンバーの意見や考えから学ぶ チームのありとあらゆる振る舞いや言語・非言語コミュニケーションを常に観察し、スクラムをより効果的にするために、もっとも適切なタイミングで、もっとも適切な方法をもって介入する

総じて、開発者はアウトプットを最大化することに集中します。短期的なアウトプットを(ほとんど)一手に担っているのが開発者で、開発者がアウトプットしないと何も生まれません。と同時に、開発者として学習します。これが長期的なアウトプットの増加につながります。
一方、スクラムマスターはチーム全体を徹底的に観察し、データを集め、ここぞというときに、これぞという方法で、わずかなアウトプット(チームへの介入)をします。ときには、あえて(短期的には)チームのアウトプットやムードが悪化するようなことも(推進はしないまでも、許容)します。その結果として、(長期的には)チーム全体のアウトプットが大きく改善します。*2

開発者とスクラムマスターを兼任するのはつらい

チームメンバーとしての振る舞い、行動の指向性はスクラムマスターのそれとは大きく違い、重ならない部分が大きく、開発者とスクラムマスターを兼任してはいけない、と言われることの意味がわかります。
おそらく、開発者とスクラムマスターを兼任する方が、2 つのスクラムチームのスクラムマスターを兼任するよりも難しいだろうな、と思います。

同時に重ならない 2 つの目的を持ちながら生活するのは、なかなか苦しいことです。

開発者とスクラムマスターを兼任しても成果が出ない

それをできるのは一種の能力で、相当鍛えればたぶんある程度はできるようになるのでしょうが、どんなにがんばっても、0.5 人弱の開発者と 0.5 人弱のスクラムマスター分の仕事をするのが最大限だろう、と感じます。

スクラムという仕組みは、そもそもそれをしなくてもすむように設計されています。
であれば、素直にその設計に従い、スクラムマスターをフルタイムの仕事とするのがおそらく賢明です。

補足 : プロダクトオーナーについて

なお、このエントリではスクラムのもう一つの役割であるプロダクトオーナーに触れていませんが、それは僕がプロダクトオーナーの経験がなく、十分な知識もないと考えているためです。
とはいえ、想像するだに、プロダクトオーナーとスクラムマスターとの兼任は、開発者とスクラムマスターとの兼任以上に難儀だろうな、と思います。

*1:僕なりにこう理解したということで、必ずしも研修でこの通り説明されていたわけではないので、異論・反論は歓迎します

*2:と、理解しています。スクラムマスターの役割はあくまでスクラムを最大限効果的にすることなので、必ずしも観察することが最善の手段というわけではないかもしれませんが……。

みんな死ぬ

理屈ではなく肌感覚で、みんなやがて死ぬのだということに支えられて、生きている今が美しいのだという感覚があって、でも肌感覚なのでこれ以上の説明ができないのだけれど、たしかにそういう感覚がある。

短く言うと、みんな死ぬ。
これを当座の座右の銘にしている。

みんな死ぬ、だから生きていられる、とも言える。

死ぬことそのものが嬉しいかというと、そんなことは(少なくとも肌感覚では)まったくなくて、死にたくない。
でも、その死ぬことに救われて生きている。

もし死なないとしたら、(少なくとも今ほどは)生きていたくないだろうと思う。
妙だけど、そう感じるのだから仕方がない。

重要なのはみんな死ぬということで、別に自分だけが死ぬわけではない。
自分だけが死ぬのだったらちょっと寂しすぎるけれど、みんな死ぬ。例外は(知る限り)ない。いい人も、悪い人も、天才も、凡人も、好きな人も、嫌いな人も、家族も、先生も、犬も、猫も、みんな死ぬ。例外なく。

せっかく死ぬのだから、生きている今のことはせめて大切にしよう、と思う。
というより、どうせ死ぬのに、生きている今のことを大切にしてしまう。

妙ですね。
妙だけど、そうしてしまうのだから仕方がない。

他の人(たち)といて楽しいとき、というか他の人(たち)が楽しそうなときとか、あーみんな死ぬなあ、よかったなあ嬉しいなあ、と思います。
もちろんよかったのは死ぬことではなくて、楽しいことが。死ぬまでの間に、楽しい時間を過ごせたことが。

みんな死ぬ、ということを覚えておくと、このように生きている今のことを少し大切にできます。(不思議なことに)

世界

演劇も、結局、世界に愛してるよと言う方法の一つなのかも、という気がします。

でも、今まで世界と呼んでいたものとこれとのあいだには少しずれがあって、この世界には人間がいる。いるし、必要。

人間の集まりとしての世界に愛してるよと言うためのきわめて効果的な方法が演劇で、人間の集まりとしての世界に愛してるよと言いたくなったから演劇を始めたのだと考えると、じつにしっくりきます。

人間の集まりとしての世界を愛せるようになったら、必ずしもそれを愛せなかった頃にあった「自分が人間であること」との矛盾が解消されて、じつにすこやかです。

このように、生きているとたまにすごくいいことがある。