この国では犬が

本と芝居とソフトウェア

みんな死ぬ

理屈ではなく肌感覚で、みんなやがて死ぬのだということに支えられて、生きている今が美しいのだという感覚があって、でも肌感覚なのでこれ以上の説明ができないのだけれど、たしかにそういう感覚がある。

短く言うと、みんな死ぬ。
これを当座の座右の銘にしている。

みんな死ぬ、だから生きていられる、とも言える。

死ぬことそのものが嬉しいかというと、そんなことは(少なくとも肌感覚では)まったくなくて、死にたくない。
でも、その死ぬことに救われて生きている。

もし死なないとしたら、(少なくとも今ほどは)生きていたくないだろうと思う。
妙だけど、そう感じるのだから仕方がない。

重要なのはみんな死ぬということで、別に自分だけが死ぬわけではない。
自分だけが死ぬのだったらちょっと寂しすぎるけれど、みんな死ぬ。例外は(知る限り)ない。いい人も、悪い人も、天才も、凡人も、好きな人も、嫌いな人も、家族も、先生も、犬も、猫も、みんな死ぬ。例外なく。

せっかく死ぬのだから、生きている今のことはせめて大切にしよう、と思う。
というより、どうせ死ぬのに、生きている今のことを大切にしてしまう。

妙ですね。
妙だけど、そうしてしまうのだから仕方がない。

他の人(たち)といて楽しいとき、というか他の人(たち)が楽しそうなときとか、あーみんな死ぬなあ、よかったなあ嬉しいなあ、と思います。
もちろんよかったのは死ぬことではなくて、楽しいことが。死ぬまでの間に、楽しい時間を過ごせたことが。

みんな死ぬ、ということを覚えておくと、このように生きている今のことを少し大切にできます。(不思議なことに)

世界

演劇も、結局、世界に愛してるよと言う方法の一つなのかも、という気がします。

でも、今まで世界と呼んでいたものとこれとのあいだには少しずれがあって、この世界には人間がいる。いるし、必要。

人間の集まりとしての世界に愛してるよと言うためのきわめて効果的な方法が演劇で、人間の集まりとしての世界に愛してるよと言いたくなったから演劇を始めたのだと考えると、じつにしっくりきます。

人間の集まりとしての世界を愛せるようになったら、必ずしもそれを愛せなかった頃にあった「自分が人間であること」との矛盾が解消されて、じつにすこやかです。

このように、生きているとたまにすごくいいことがある。

スクラムをやっているチームで育った子はスクラムをやらないチームでやっていけないのでは仮説

スクラムは、すべてを明らかにするフレームワークです。

スクラムに取り組むことで、何もかもがスクラムチームのもとに明らかになっていき、(プロダクト開発にまつわる)悩みや苦しみを個人で抱えこむといったことはとても少なくなります。*1

あ……、とは言いながら、僕はまだスクラムをやっているわけではなくて、『アジャイルな見積りと計画づくり』や『アジャイルサムライ』を読んで、イテレーティブでインクリメンタルな開発をしていこうよ、という機運のもとソフトウェアを開発している一介の開発者にすぎないのですが、先日、日本で唯一の認定スクラムトレーナーである江端さんが講師をつとめる認定スクラムマスター研修に参加し、世間知にまみれまくった認識を色々とひっくり返されてピュアになり、それなりにスクラムが何なのか理解できたつもりなのが今です。今所属しているプロジェクトで、これからはきちんとスクラムフレームワークに則ってみようということになり、色々と準備をしています。(というか、徐々に始めています)

スクラムはすべてを明らかにし、悩みや苦しみは共有される

閑話休題

繰り返すと、スクラムに取り組むことで、何もかもがスクラムチームのもとに明らかになっていき、(プロダクト開発にまつわる)悩みや苦しみを個人で抱えこむといったことはとても少なくなるわけです。

事実、まあまだ完全なスクラムをやっているわけではないにせよ(むしろ、にも関わらず)僕が個人的に管理しているタスクの数(private な Trello のボードにあるカードの数)は、これくらい変わりました。

  • 始める前 : 100(±50)件程度
  • 現在 : 30 件くらい

もちろん、タスクの粒度が大きくなったとか、単に管理しなくなったとかいうことではなく、消えたアイテムはすべてチームが知るところのタスク、具体的には壁やホワイトボードに貼られた付箋になっています。*2

この調子でいくと、たぶん個人用の Trello のボードは捨てることになるな、と思っています。
あるいは残すにしても、もっとシンプルな Todo リストのようなものになるか。

そして、100件→ 30 件になった現時点で、既に以下のような心境です。

清々しいんです。
清々しすぎて、いいのかしらという何か罪悪感みたいなものすら覚えます。

個人で何か抱えたときのストレスがヤバイ

とは言いながら、まだほんとのスクラムを始めていないので、ちょいちょい個人タスクみたいになっているものごとがあります。

そんな状況での一幕がこちら。

f:id:enk_enk:20160826204917p:plain

つらいんですよ。前よりも。
一人で何かを抱えるようなことになると。仕様が明らかになっていない状態で作り始めるようなことをすると。

以前はできたんです。3 ヵ月かかる機能の開発を仕様策定から設計・開発・テストまで、見積りからスケジュール管理まで、全部一人でやってましたよ。もちろん、必要に応じて相談しながらですけど……。
当然のようにやってたんです。まあ、きっと効率はよくなかったのでしょうけど。

かたや見積り 2 時間のタスク。タイムスパンで言っても一日。でつらいとか。
軟弱になっています。明らかに(不明瞭さへの)ストレス耐性が下がっています。

スクラムをやっているチームで育った子はスクラムをやらないチームでやっていけないのでは

そんなわけで、「スクラムをやっているチームで育った子はスクラムをやらないチームでやっていけないのでは」という心配をするに至ります。

正直に言って、自分のことは心配していません。

スクラムじゃない状態も知っているし、まあいざ必要となれば辛く厳しい戦場に戻っていくこともたぶんできます。*3
そういうところへ行っても、辛抱強く働きかけて、徐々にスクラムにしていけば(あるいは、もっとすぐれた別のやり方があれば、それにしていけば)いい、と思います。

でも、スクラムで育った子がいたとして、スクラムじゃないものをスクラムに変えていく方法も知らない、そんな子が、何らかの事情で突然放り出されることになってしまったら。
たとえば、会社が倒産したら?

全然余裕でした

スクラムというのがどういう状態かとてもよく知っているのだから、そういうものを求める組織に行けばいいだけですね。
簡単でした。

ただ、何らかの理由でそうじゃない組織に入ってしまうと、「(そうじゃないものと)比べながら戦略を立てたり説得できない」という点ではやや不利になるかもしれません。
また、そういうものを断固として受け付けそうにない、受け付ける余地のない組織に所属することも慎重に避けねばなりません。

そしてもちろん、ストレスがかかるでしょう。少なくともはじめは。
なんせその(ものごとがチームのもとで明らかになっていない)状態を知らないので、かなり強烈なストレスになるかもしれません。

ただ、結局それを先に味わうか後に味わうかという問題であって、「先に味わう」ことのコスト(生産性の低い時間を過ごすことのコスト)を計算に入れれば、先に味わう方がよい、とう結論は導きがたいように思います。

たぶんこれからの組織はスクラム(的なもの)になっていくはず

そして、スクラムの状態を知っておいたほうがよい、と言えるもう一つの理由が、(現時点でまだまだ多いと思われる)従来型の組織は、スクラムを活用する組織に置き換えられていくだろう、と予測できることです。
かっちりした根拠はないのですが、まあ、そっちの方がいいから、ですね。少なくとも営利組織にとっては。

もちろん、僕が知らないスクラム以外のプロダクト開発方法論はあるのかもしれませんし、ある程度それがスクラムに似ているということもあると思います。
従来型の「アサインされた(あるいは、個人が自主的に作り出した)タスクを抱え込む」スタイルよりも、「明らかにしていく」やり方のほうが優勢になっていくだろう、というのが論旨です。

スクラムをやりながらメンバーを育てよう

当然ながら、スクラムのスタイルによる見習いメンバーへのメリットも数多くあります。

  • うまくいくというのがどういうことかわかる
  • (単純に知識が少ないことが原因の)しょうもないハマりの時間が減り、どんどん新しいことを学習できる
  • 組織やプロダクト、チームの一部だけではなく、初めから全体を意識しながら仕事ができる
  • 「適応する」ということがどういうことか身をもって学べる

スクラムそのものはまだ始めていないのであまり多くは思いつきませんが、きっとまだ他にもあると思います。
こういうメリットのことを意識しながら経験の浅いメンバーを育てていくことができれば、きっとそのメンバーの成長にとってとても有意義な毎日になるはずです。

今気づいたのですが、特に最後のが重要で、この「適応する」という能力を持っていれば、たぶんあまりイケてない組織に放り出されることになっても、その人は何とかやっていけると思います。

よかった。
書き始めたときには本気で心配していたので、安心してしまいました。

最後にひと言

僕がこないだ学んだのがたまたまスクラムで、とてもよくできた(僕が知っている数少ない他のものよりもよい)システムだと感じたので「スクラム」という固有名詞を一貫して使いましたが、スクラムが嫌いな人は、別の言葉に置き換えて読んでもらってもよいです。「アジャイル」とかでも。

ただ、それが、人間というものを深く理解して作られたシステムで、ものごとを徹底的に白日のもとにさらして、それを調べ、適応し続けていくようなものであるならば。

*1:何もかもが明らかになることへの悩みや苦しみはあるかもしれませんが……

*2:先述のようにスクラムそのものはまだ始めていないので、モノによってはとりあえず貼ってるだけとかだったりするのですが、いずれスクラムの枠組みに吸収されます

*3:スクラムが厳しくないわけではないですが、別の種類の厳しさです

会話の豊饒、そして会話がないことの豊饒『宮本武蔵(完全版)』@東京芸術劇場

ブログの体裁を変えてから演劇の話ばっかりですが、書きます。

東京芸術劇場で『宮本武蔵(完全版)』を観ました。

musashi-stage.themedia.jp

作・演出の前田司郎さんの名前だけ知っていて、一度は見ておくか、ということで行ってみた公演。
これがすばらしかった。

冗長な豊饒な会話、会話

(もちろん)表題の通り、宮本武蔵を主人公とした話。

あらすじとしては、以下のようなものです。

伝説の剣豪として世に名を知らしめるも、その内面は臆病な男、宮本武蔵。
色々と疲れの溜まった武蔵は、湯治のため山奥の宿を訪れる。そこには様々な面々と出会うこととなる。
私たちが考える理想の武蔵像からかけ離れた主人公、宮本武蔵は皆から偽物ではないかと疑われる。
証明のしようもないが、本物と認められたら命を狙われる、しかし偽物と思われても面白くない。
疑心暗鬼の中で、武蔵に恨みをもつ者、討ち取って名を上げたい者、さまざまな思惑が重なって、物語は思いもよらない方向へ。
最後までヒーローらしさも小次郎との決闘もなく、そのだらしなさが笑いを誘う現代会話劇。
“本当の宮本武蔵は、こんなんだったのではないか!?”

(公式ページより引用)

観る前は、「笑えたらいいな~」くらいの期待がありました。

そして、笑えました。

会話劇。
それも、なんなら台詞(内容)そのものは思い出せないくらいの間投詞の嵐、嵐!

「え」「あ」「うん」「えっ」「いやいや」エトセトラエトセトラ、こういった類の言葉だけで構成されているんじゃないかと見紛うばかりの、会話。(よく思い出してみるとそんなこともなかったですが)

そうなんだ、人間の会話は。(特に、うまくやれない人間の会話は)
「くっくっく」という種類の笑いが漏れます。身に覚えがありすぎます

ちなみに、観客には比較的若い女性が多かったようで(たぶん……)、たびたび明るい笑い声も上がっていました。(あっイケメン俳優だからか……)
サービスシーンもありました。いい身体だったな~。(一部)

そして「貴殿」「拙者」「ござる」等々の時代劇風言葉遣いは申し訳程度に差し込まれ、現代日本語となんと自由に行き来すること!
明らかに不自然なんだけど、ぎこちなくはないんです。いやぎこちないんですけど。それを気にさせない謎の説得力。

もちろん問題は書かれたセリフの字面だけでなく、その速さ、大きさ、イントネーション、アクセント、間といったことにも及びます。
それらのすべてが、実に豊穣だった。

細かく指示を出しているのか、はたまた、どうやって作っているのかわかりませんが。
こういうのが観たいんですよ、演劇で。一つ前の記事でも書いたように。

enk.hatenablog.com

無言の時間の豊穣

そんなこんなで(劇中サクッと人が死んだりもするなか)終始実に楽しく観たのですが、この舞台が僕にとってきっと長いこと忘れられないであろうものになったのは、大詰めのシーンでした。

まずラストシーン。
武蔵と伊織のシーン。

伊織のあの無言、無言、動き、ゆっくりとした動き、震え、無言、客席の静寂、静寂、静寂、静寂。
自分自身を賭すこと。

去年の秋に観た『皆既食』のラストシーンを思い出しました。
似ているようで結構色々と違うのだけれど、美しさの程度では同じ。

そして、その全身全霊による賭けがむなしく終わること。(少なくとも、その場限りでは)
それが全身全霊による行いであることを知りながら、それをむなしく終わらせることしかできないこと。

観客をずっと遠くへ連れていきます。

それから、そのラストシーンを用意したと思うのが、直前のシーン。
武蔵とツルのシーン。

ここで決定的にすばらしい仕事をしたのが、ツルを演じた内田慈さんだと思うのです。
これまでずっとずっと、(まれに違うものが入っていたとしても)コメディ基調の演技と演出で進行してきた 2 時間を超えるこの舞台で、初めてはっきりとほんとうのことを持ち込んだ。

あのとき、客席が静かになった。
だから、ラストシーンが成立したのです。間違いなく。

このシーンも、ラストシーンほどではないものの、長い無言の時間がありました。
豊饒な、饒舌な無言の時間。

演劇はそれだけでいい

演劇に何を求めるかは人それぞれだと思いますが、僕はこういうラストシーンさえあれば、演劇はそれだけでいい、と思います。
そういうものを他で得たことがないので。

もっとも、そういうラストシーンを用意するには、そこまでの運びが十分巧みである必要があるのだと思いますが。(観客が途中でしらけたり寝てしまったら、どうしようもない)

それに、もちろんこの『宮本武蔵(完全版)』がラストシーンだけよかったということではなくて、終始とても楽しめる作品でした。
それでも僕は、このラストシーンを用意できる作家、演出家、スタッフそれから俳優を望むし、自分が演じるときもそうありたい、と思います。

次の月曜、2016/8/29(月)までやっています。
チケットは完売のようですが、当日券は出ているようです。気になっている方は、ぜひ。

演劇の好きなところ : コミュニケーション、内臓、からだ、想像力

さかのぼること 1 年半前に演劇に出会ってしまって、以来観ているし、やってもいる。

ガンカンジャという漫画がある

話はまったく変わって、ガンカンジャという Web コミックがある。

www.lezhin.com

たしか Facebook の広告で「感動の涙」みたいな雰囲気で紹介されていたと(おぼろげながら)記憶していて、ふだんは無視するのになぜクリックしたのかはよく思い出せないのだけれど、これが読み始めてみると感動の涙どころではなく、脳だか、全身だか、下手したら(僕の)世界をが くがくがくっと揺さぶるような作品で一気に読んでしまい、呆然とした。

なお完結していない。

さらに話は変わって、「ワンパンマン」という(いまや有名ですが)Web コミックがあって、ヘロヘロの絵とサイコーのストーリーでサイコーで、しばらく(だいぶか)前に村田雄介の画による商業用の連載も始まって、ずっと楽しみに更新をチェックしている。(なおなかなか更新されない)

一方、ガンカンジャは何しろ読むとこちらの世界をガックンガックンしてくれかねないので、なかなか更新のチェックに向かう指が重い。(なお毎週きっちり更新されているようです)
というか、めったにチェックしない。何なら楽しみなのかどうかもよくわからない。

今日も久々にチェックして(実に 1 か月半ぶりだった)、ド ドドドッというものがきて、まだ心臓がドキドキしている。

ここで、そういう体験をすること(させる作品)ってあんまり多くはないな(多くても困るのだけど)、ということに思い至って、ジャンルとしては今や演劇がその最たるものだな、と気づいた。

演劇がなかった頃の暫定一位は、アニメだったのだけれど。今や演劇。

演劇の何が好きなのか

なので、演劇の何が好きなのか考えてみる。

コミュニケートする人間を見る

演劇では、人が出てきて、多くの場合は別の人も出てきて、コミュニケーションをする。

人間のコミュニケーションは、面白い。
コミュニケーションの方法にも色々あって、言葉(文言)、その大きさ、速さ、間、高さ、音色エトセトラエトセトラの要素、表情、顔の向き、身ぶり、手ぶり、身体の向き、足の向き、筋肉の緊張、呼吸、等々挙げ始めるときりがない。

公共の場所(カフェとか)で漏れ聞こえる会話を聞くのが結構好きで、身体が発するものは一切受け取れないけれど、声からわかるものだけでもすごく面白い。
でもこれは趣味がよくない(一般には「盗み聞き」と言われる)ので、露骨にやるわけにはいかない。

他にも、コンビニ店員さんとのやり取りとか基本的に定型なので、ついついニュアンスというか細部に注目してしまって、毎度楽しんでいたりする。
しかしこれにも限度がある。

そこで演劇ですよ。
演劇では、人と人とがコミュニケーションするさまを見ていてよい。タダで。いやタダじゃないけど。

演劇では、むしろ人と人とのコミュニケーションを見ることが推奨されている
これが喜びでなくて何か。ぐへへ。

引きずり出された内臓を直視する

さらに演劇では、内臓まで見られる場合がある。

これは比喩で、外科的な意味での内臓を見られるわけでは(もちろん)ないわけだけど、何というか、ふだん人が(まっとうな社会性を持った人間なら)大事にだいじに内蔵して外に出さないようにしているものがでろでろっと出てくるところが見られるのが演劇でもある。

それが見られる理由は、一つには、そういうものが出てきやすい状況(ストーリー)が用意されるということがある。

多くの演劇では、何らかの事件が起こり、観客はそれに対する俳優の反応を見ることができる。
ふつう(現実の生活で)事件が起こった場合には、そもそもそんなに頻繁には起こらないけれど、仮に起こったとして、関係者の反応を悠長に観察するという態度は(まっとうな社会性を期待される人間には)許されない。

また、俳優は、内臓を出そうとする。

と言うと明らかに語弊があって、舞台の上で、内臓を見せびらかすような態度はよくないとされる。僕もそう思う。
ここは微妙なところで説明が難しいのだけど、俳優は内臓を出そうとせずに、でもやむをえず出てしまうみたいなところが演劇の理想形の一つで、結果として、観客は内臓を見ることができる。タダで。いやお金は払うのだけれど、それよりもずっと希少な社会生活をリスクにさらすことなく。

ぐへへ、とは言わない。結構つらいこともあるので。
ただ、世界がぐらぐらするのはこの辺の要因に負うところがが大きい。たぶん。

脚本・演出・俳優と想像力の合作

そして演劇が類似の作品形態、具体的には映画やドラマと違うところは、いくつもあるのだけれど、一つには「演劇には想像力が大きく介在する」ということがある。

演劇では、正真正銘の生きている人間が舞台の上に立って、演じる。
生きている人間には体積も質量もあるし、そこから音が出るし、なんというか人間そのものである。(アホみたいな言い方だけど、人間そのものなので仕方ない)

ところが、そのそのものでしかない人間(俳優)が立つのは、舞台であり、多少の小道具大道具はあるにせよ、(物理的には)現実とは程遠い状況であることが多い。
ここに、観客の想像力が仕事をする余地がある。

演劇では、そこに明らかにないにも関わらず、嵐の街並みが、南国の海が、天から注ぐ光が(そんなものは 2016 年の現実にはない!)登場する。
製作者の仕事と、観客の想像力によって。

映画やドラマの撮影では、ふつう現実の部屋なり、街並みなり、それからモノが使われる。「ロケ」という言葉もあるくらいである。
そこに人間の想像力が介在する余地は少ない。現実の部屋や、街並みやモノは、それ以上のものにはあまりならない。「四角い画面」という強烈な制約がある以上、本当のホンモノの現実、現実のオフィス、現実のライブハウス、現実の海辺にはかなわない場合が極めて多い。(と、少なくとも僕は感じる)

もっとも、演劇でもたまにそのまま映画を撮っても成り立つようなリアルなセットを建てこむ場合もあって、そういうのはそういうので大好きだったりするので、はじめの二つに比べるとこの要素は少しだけ弱いのかもしれない。(僕にとっては)

現実にそこにある人間の身体

もう一つ映画やドラマと違うところを挙げておく。

先ほど「正真正銘の生きている人間」という言葉を使ったけれど、映画やドラマの人間は「正真正銘の生きている人間」ではない。

なぜか。

一つには、映画やドラマは画面に収められている。においもしないし、奥行きもない。つばも飛ばさない。(こちらには)
これは演劇を好きな人以外にはかなり伝わりづらいとは思うのだけれど、そのにおいや奥行きやつばといったこと(その周辺のもろもろ)が、「コミュニケートする人間」や「引きずり出された内臓」の質にかなり強く影響している、と感じる。うまく説明できないのだけど。

それから、映画やドラマの人間は切り取られている。
そもそも映画やドラマに深い思い入れがないのであまりうかつなことは言いたくないのだけれど、映画やドラマでは、編集が行われている。はずだ。目指されているのは「監督が意図した画」であって、「コミュニケートする人間、その場そのもの」ではないはずだ。(多くの場合。もしそれがいいのなら、映画を撮らずに演劇をやればいい……はず)

一方、似ているようで違うこととして、「映画やドラマは(監督の)意図や作為、こう見せようというのが感じられて嫌い」みたいなことは、別に思わない。

演劇にだって当然演出の意図はあるし、脚本を書いた時点で人物そのもの、全人格をとらえるということは絶対にかなわず、何らかの形で切り取られている。
それでもやはり、人間や「場」そのものを感じられるのは圧倒的に演劇だと感じる。そういう点でおすすめの映画ある方いたら、ぜひ教えてください。

もちろん、ストーリーやテーマも

だいぶとっちらかってきたのでそろそろ終わりにする。
最後に、書き洩らしたことをできるだけとっちらかしておく。

演劇には、ストーリーやテーマがある。そのストーリーやテーマを感じることも(もちろん)大きな楽しみの一つで、他の作品形態とは異なる形でストーリーやテーマを感受することができる。

テーマやストーリーということでいうと、演劇には比較的社会的なテーマを扱った作品が多いように思う。演劇は時事問題に強い。

演劇の種類によっては、エンターテインメント性の高いものもある。コメディと呼ばれるジャンルの作品では多くの場面で笑うことができるし、ダンスや歌を楽しめる作品もある。(もちろん、それらが作品の重要なテーマそのものに通じていることも多い)

「有名な俳優を生で見られる」というのもあるか。もともとテレビを見ないのであまり感じることはないのだけれど。多部未華子を最前列で見たときちょっと嬉しかった。

うーん、意外と思いつかない。
結局、僕にとっての演劇の魅力は、これまでに大きな項目として挙げてきた 4 つに尽きるのかもしれない。

あ、観て泣いた場合、泣くことでカタルシスが得られる、という効果もあるのか。ただ、これは絞って絞ってようやく出てきた。
泣くことを目的にしたくない、泣いてしまってはもったいない、という意識がどうやらどこかにある。これは考え始めると面白そうなテーマだけれど、脱線になるので、また。

テレビではやれないことをやれる、というのもあった。放送禁止用語の連発とか。
たぶんこれもメリットなのでしょうね。なかなか出てこなかったから、個人的には別段メリットとも感じていないのかもだけど。

といったところです。
もっと映画やアニメ、漫画や小説といった形態との対比もしてみたいのだけれど、既に長すぎるので今回はこれまでとします。